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メレンゲ今週のCDご紹介35

ストロベリー・スウィッチブレイド、ピンク・レディ、エイジアン・ダブ・ファウンデーション、PiL、
キング・クリムズン、つんく、トーマス・ドルビー、戸川京子、モンスーン・ウェディング、小泉今日子
評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)

Drive to 80's Vol.17

 

★★★(2002.8.19)

『ふたりのイエスタデイ/ストロベリー・スウィッチブレイド』 85年リリース。当時は興味が無かった。時代のモードをファッションに纏いながら、ヘボなオルタナティヴをやってんだろ、と勘ぐったからね。思えば、その頃の僕は不信感だらけだった。そう、パンク&ニューウェーヴ以降の流れに対して。 本作のリリース時に「今、時代は“ストロベリー”だ!」と言い張った人物がいて、彼はそんな名前のレコードレーベルを立ち上げたっけな。(興味のある人は調べてみてね。面白いネタに出会えますぜ!) 女の子2人を中心としたインディーズ系バンドが、本作のジャケ写とソックリのムードで宣材のスチルを撮影した現場も見たっけな。(これも面白いネタに出会えますぜ!) そんな思い出話しか持たない僕が本作を聴いたのは、一昨年。初めて興味を持った、っつうか、初めてサウンド概要に関する情報を取得したのが一昨年だったの。遅すぎ〜! なんだよぉ、好きだよ、こーいうの。最初に言えよ、水臭いぜ。 ゴーゴーズが提示したパンクでオールディでちょっと過激なポップの甘美さをベースに、打ち込み手法で開花させたユニット、って印象。ゴーゴーズの甘美って、音符と音符の通過音にあったんじゃないか、と本作を聴いて気付いた。持続音をビブラート等で聴かせるんじゃなくて、次の音に持っていく音の傾斜や揺れを音楽的に強調した、と言うか。あー、それってポール・マッカートニーも多用するよな。細い声で表現が倍増する手法。ポールが細く発声するミディアム楽曲をチェックしてごらん。 さて、今となってはTommyFeburary6のお手本としてもクローズアップされた本作。トミフェブの狙いは音構成でなく、「メロディの聴かせ方」だったのだろう。本作は中途半端に念の入ったバックトラックよりも歌が聴こえてくる。この声量なのに! 「通過音唱法」や、声の録音・編集も踏まえた「メロディの聴かせ方」。 21世紀に本作が掘り起こされる圧倒的な必然とは、つまり啓示なのですよ。

〜歌謡曲を聴く38〜

 

★★★(2002.8.19)

『BEST ONE/ピンク・レディ』 70年代末期の超ヒット商品はSONY社のヘッドフォンステレオ「ウォークマン」。それは基本的に音楽を聴くハードウェアなのであって、牽引すべきソフト(=音楽)が必要なわけですね。一説にはYMOが、そして他説ではピンク・レディー(以下、PL)が貢献した、ということになっている。 僕は漫然とYMOとPLの並列に納得。「デジタル世代のアイドル」というPLへの形容は、恐らくシンクタンクのマーケティング上の方便だろうが、敢えて、その根拠を音楽的に分析するならば、(1)8ビートを主体としたリズムの強調(リズムバランスの強化は歌謡史の事件でしょう! 僕は『UFO』のブレイクで初めてキックの存在を認識した) (2)フレーズ多用型アレンジ(単音ユニゾン型の決め、等) (3)シンセ&シンセドラムの使用。そんなところ。 点と点を直線的に繋ぐような振り付けもデジタルな印象の要因か? 振り付けを前提とした楽曲の仕掛けや鋭角アレンジは音楽から曖昧さを徹底的に排除。だから、子供が理解し易いんだ(=玩具的子供騙し)、なんつう批判があったんだろうし、今ならば「モーニング娘。」などに同様の批判があるのだろう。 僕の見解はこうだ。子供が理解し易いんじゃなくて、子供が反応し易くて大人が反応しにくいんだよね。曖昧成分の少ない情報って刺激が強過ぎて耳に痛いもんなのよ。大人音楽(アンタにも理解出来る音楽)との比較なんて、アンタのキャパの狭さを証明するだけなの。 新しい刺激を追及し、エスカレートしがちな音楽市場において、それを大衆的に翻訳し普及させる牽引力は常に必須。それがPLだったわけだ。付加的にウォークマンを牽引。80年代歌謡曲のリズム比率がハネ上がったのは御存知の通り。 シングル集を一気に聴き通し、楽曲の強さに改めて驚いた。声の個性が異なる2人の声の混じりは実に素晴らしい。 僕のベストは『渚のシンドバット』『ピンク・タイフーン』

ワールドサイドを歩け!! 5

 

★★★(2002.8.26)

『コンシャス・パーティー/エイジアン・ダブ・ファウンデーション』 ひっそりとリリースされていたライヴ音源。観客の歓声などのアンビエント成分を極力排除し、ライン音源を中心に構成されている。おかげで、ライヴ時のトラック構成がクッキリと判明。そうかぁ、案外、構成パートは少ないんだぁ。打ち込みのドラムトラックと生のベース及びギターだけで、バッキングが充分に成立しているのね。 楽曲によってはターンテーブルのネタが声高に主張を始めるし、プログラミングされた電子音がビュンビュンと飛び交う。リズムのプログラミングが複雑に音数を稼いでいる部分もある。 しかし、総合的な情報量がこれっぽっちだったのかと愕然とした。スタジオ録音で見せつけられた情報量を念頭に置く余り、ライヴでの情報量も大量なのだと誤解していたけれど、映像やアンビエントを伴わないライヴ音源ゆえに在りのままの姿が見えた。 本作によりADFの音楽構造と哲学がより明確に認識できる。 ギターとベースが持つ独特の音色とリズムトラックの3ピースに、吐き散らされるボーカルが乗る瞬間には、ADFがPiLの末裔であることを理解できる。サンプルネタはヌスラット・ファテ・アリ・ハーン。瞬時にON→OFFされるディレイはダブのシステムそのもの。(手動エフェクトの重要性は恐ろしく高い) つまり、ADFは21世紀音楽を総括した1つの形態であった、ということだ。従来のどの演奏形態とも異なる編成。パンク、オルタナ、ダブ、レゲエ、バングラ、ヒップホップ等の完全なミクスチャー。分類すべきジャンルが無い。理想的なワールドミュージックと呼びたいね、僕は。 さて、看板スターだったボーカルのディーダの脱退に伴うメンバーチェンジ後、ニュースの途絶えたADF。本作から連なる彼等の最後のピークを僕は観た。『BUZZIN'』のイントロで、ディーダと一緒に「This here's the miracle of MODERN CREATION!」と叫んだ時、僕は確かに大量の光が輝くのを観た。  関連(ライヴレポ1

Drive to 80's Vol.18

 

★★(2002.8.26)

『HAPPY?/PiL』 カリスマアーティストの仕事なら何でもありがたがる風潮がある。ジョン・ライドンもそうやって1作毎に絶賛されたり絶望されながらも、何かを期待され続けている人物だろう。セックス・ピストルズのシンガーだったってだけの話じゃねえか! PiLのファーストで驚いて、3枚目まで「いったい、どこに行く気なんだ!?」なんつって聴いていた時代と本作は本質的に違う音楽だ。多分、ポップ化に賛成だの反対だの論争が起こったんだろう。カリスマは堕落した、などと。 で、初めて聴きましたぜ、本作。PiLはデビュー作を扱う予定だったのだけど、本作を分析した方がニューウェーヴの本質を語れるような気がして。 で、このアルバム、ポップですかぁ? ポップ信者の僕としては、ポップと認めたくないんですけど、“判り難くないもの”は全部ポップですかぁ? こーいう起伏の無い痙攣ボーカルを聴くのならば、僕は初期PiLのオルタナティヴ・ダブ路線の方が心地よいなぁ。おっと、いけねぇ、今回は皮肉を言わずに進行したかったのに…。 ジョン・マクゴーチ(いつの間にマクガフじゃねーんだよ!)等テクニシャンの寄り合いバンドとなったPiLのニューウェーヴディスコ。参加メンバー単体の技能はなるほど確かな手応え。EQとリヴァーブがきつすぎて判断しにくいのだけれど、このドラムって人力? すっげー正確なのな。ハイハットは確実に生だと思うけれど、センスも技能も素晴らしい。ベースも正確。ギターはセンスの見本市。 さぁ、文句あるか!? あるんだよ! アンサンブルの意味が違ったんだね、80年代ニューウェーヴ。全体の楽器の絡みの中で和声を構築したり、低音や高音を構成するわけじゃないのね。独立したフレーズを貼り付け合うのがアンサンブルなのね。全然、機能性が無いじゃないか。ぶつかり合う音の整合点がユニゾンとはね。 あぁ、結局、皮肉しか言ってないな。PiLの歌い手も皮肉屋だからね。

 

★★★☆(2002.9.02)

『USA/キング・クリムズン』 長い間、封印されてきたアルバムだそうで…。うむ、僕が本作と向かい合うのも20年ぶりぐらいになると思う。あの頃の僕にはキング・クリムゾンの音は「1つの塊」として聴こえていた。勿論、僕の耳の能力もそんなもんだったし。なんと言うか、そーいう音楽だと思って聴いていたし。 それが、今…。 聴こえるんだねぇ、各自のパートが各々に。当たり前の話なんだけど、クリムゾンの音楽って複数の人間が演奏している音なんですねぇ。血の通った音楽だったんだぁ、と初めて発見出来たようで、なんだか嬉しい。じゃあ、今まで機会仕掛けの音楽だとでも思っていたのかって? ううん、そうじゃくて…、だから、そのぉ…、「一塊の音」だと…。 メロトロンのサウンドも、“あらかじめそこに張り付いていた音”ではなくて、ちゃんと演奏されていたんだぁ、と思えたわけなんですよ。テープが回っているとか、コンピュータがシンクしているわけじゃなく…。つまり、フリップがメロトロンとギターを差し替える瞬間とか、ドラムの迷いとかハッキリわかるのがえれぇ面白くって! クリムゾンって人間の理性によって制御されていた音楽だったんですね。緻密なんだもの、驚いちゃったよ。 って、なんだか、僕個人のクリムゾンに対する誤解や偏見を暴露しているみたいで居心地が悪くなってきましたな。 言い訳させて! 大暴れするベースの背後でダラダラと暴走し続けるギターやマイペースなバイオリンが珍妙に同居するアンサンブル。これって、ギターの無機質さやミックスダウンの巧妙さもさることながら、やっぱり、音を一塊にして投げかけている結果だと思うわけなんですよ。その意味では、アンサンブルって言い回しさえも怪しいわけで。 解体された新しい文法だと思いました、僕は。そう、21世紀の耳でも文法は新しい、と。 初収録の『スターレス』終了後、歓声の変則ループが150秒に渡って展開。 なんだか、昇天。  関連

〜歌謡曲を聴く39〜

 

★★★(2002.9.02)

『A HARD DAY'S NIGHT/つんく』 ようやく入手。副題は『つんくが完コピやっちゃった ヤァ!ヤァ!ヤァ!Vol.1』。 本家のオリジナルを忠実に再現。演奏ミスも本家のまんま再現。本家の使用楽器や録音法も完全コピー。録音は当然アビーロードスタジオ。言うならば、ビートルズに憧れる人間の夢、だよね。金と熱意を投入した本気の「ビートルズごっこ」。 本家よりも、もっと上手に演奏しよう(演奏できる)っつうエゴは完全にスポイル。サウンドまで同じ。そりゃ、一生に一度、リンゴの音で叩いてみたかろうさ、ドラム。 この世に無数に存在するビートルズ楽曲のカヴァに比べ、本作は編曲面での知性は皆無。しかし、オリジナルを分析し再生する工程でストイックな理性が試されるわけだ。完成されてみると、これがコロンブスの卵。チューリップのカヴァ作の中途半端さを痛感。 とは言うものの、「ビートルズごっこ」をやられちゃった者のヒガミとして重箱の隅だけはつつく。ったりめぇだろ! 悔しいんだいっ! やっぱ、コンプのかかり具合が違うんだよね。ハイハットの潰れ方って、こうじゃないんだよぉ。ギターの潰れ方も妙に綺麗で、耳に痛い。当時のリミッター事情(「フェアチャイルド」やアナログのテープリミッター)で出来た独特のコモッたサウンドを現代のデジタル機器でシミュレーションする限界が本作か。(当然、アナログも導入しているんだろうけどね) それから、つんく、メロディは正確に歌えよぉ。つんくの頭の中で鳴るメロディは本家とニュアンスが違うって聴き方も楽しいのだけど、本作ではガッチリ行くべきだろ? メロディや節回しに独自性があるし、どこからどう聴いてもつんくの声に違いない。しかし、ジョンやポールとしての役割が明確に聴き取れるのが不思議。 コンセプトのオタク臭さがギリギリ回避されている要因はつんくの歌の功績だろう。 僕が何より唸ったのは選曲の正しさだね! 最終曲に『夢の人』とはね。やられましたっ!  関連(モーニング娘1モー娘2娘3

Drive to 80's Vol.19

 

★★★(2002.9.09)

『光と物体/トーマス・ドルビー』 本作は別の名義でリリースされるべきだった。 と、82年の僕は思った。忌々しく呪った、っつうか。このアルバムの名義がDAVID BOWIEだったら、どんなに僕は救われただろうか、と。 自由度もクオリティも抜群に高い楽曲群と、モダーンなサウンド。ヨーロッパ的な重圧感、そして、それを上回るポジティヴな楽曲力。ベルリン3部作の後、80年代のBOWIEの着地点(開始点)は、ここであるべきだったのに…。 ま、実際のところ、DOLBYBOWIEの声は似ている。楽曲にも随所にBOWIE風の譜割や変テコなコード進行が登場する。僕はDOLBYBOWIEの軽い物真似をしたんじゃないか、と睨むネ。いや、だって、そのくらい朝飯前っつう才能の持ち主であって、ユーモアセンスも黒く、野心もタップリ、と。BOWIEの転身への当て擦りや、BOWIE人気への便乗とか、様々な思惑があったんでしょうよ、きっと。 BOWIEファンが御大を見限って、DOLBYに大移動したなんつう話もほとんど聞いたことが無いわけなんだけど、結果的に本作はYMO寄りの印象が強い。単に矢野顕子とアンディ・パートリッジという坂本教授人脈の参加のせいだね。 本作の楽曲レベルは実に素晴らしいのだけれど、それ以上に耳を傾けたいのは編曲とエンジニアリングの素晴らしさ。82年のリズムマシーンの程度なんてタカが知れているわけですが、実に太い音に仕上がっている。同時代の打ち込み音楽と比較して、リズムへの圧倒的な自由認識を証明するプログラミングも一筋縄ではいかない。生楽器とプログラミングシンセとのバランスは独特の暖かさとモダニズムを保証。 そう、BOWIEがやってくれるはずの音だったわけさ。(正直に言えば、BOWIEの歌唱も作曲もDOLBYほど上手くはないと僕は思う…) リリース後の1年間、英国からも日本からも完全に無視されたという本作。今もその評価が高いとは思えない。不当だね。  関連

〜歌謡曲を聴く40〜

 

☆☆☆(2002.9.09)

『動物園の鰐』1曲のみの得点

『涙。/戸川京子』 和製ニューウェーヴ歌謡(いわゆる「業界ニューウェーヴ」も含めて)の中にロリータポップというカテゴリーがあったと思う。例えば岡崎友紀がYUKIとしてリリースした“ネオ・スペクタ−歌謡”にも、それは顕著。言ってみれば、ブロンディが提唱した“年増のロリータポップ”への追随と拡大解釈による再生産。 しかし、ロリータを看板として掲げる際には、やはり断り書きが必要だった。勿論、断り書きとは「フレンチポップのように」という一文のこと。「フレンチポップのようにロリータポップを体現する和製ニューウェーヴ歌謡」はテクノポップの終焉を待って登場。本命は早瀬優香子←Click!!)と戸川京子。 早瀬優香子の『サルトルで眠れない』のとんでもなさ以上にとんでもなかったのが戸川京子の『動物園の鰐〜Nobody in town〜』であったと正直に告白します。この1曲で僕は作詞・作曲を担当した小西康陽という人物が大嫌いになった。こんなにハイセンスな楽曲を日本人が作ってもいいと思ってんのかっ!? 心の狭い僕は嫉妬心で一杯になってしまったのでした。 (今となっては音色が古くなってしまった)打ち込みリズムの奇妙なセンス、色っぽいフレットレスベースの響き、歯切れのよいシンセコード、しなやかで儚い単音シンセ、そのどれもが僕には「完璧」に聴こえた。気取った歌詞もスマートでスタイリッシュで、僕には臭くはないな。そして、極めつけは日本の歌謡曲史の文脈にないメロディ回し。僕がこれまで聴いた「PaPaPaコーラス」←Click!!)の中で最高傑作は、間違いなくこの楽曲の「PaPaPa」だ。僕はこの楽曲が憎くてたまらない。と、同時に好きでたまらない。この一曲を以って、戸川京子は僕の中で“彼女の姉以上の地位”を獲得。 それ以外の収録楽曲はと言えば、小洒落た歌詞と曖昧にセンスのよいメロディの羅列。テーマ(フレンチロリータ)を超えていない。 そして、今年、No 京子 in town

ワールドサイドを歩け!! 6

 

★★★(2002.9.16)

『モンスーン・ウェディング/オリジナル・サウンドトラック』 通低音。楽曲全体を通して鳴り続ける低音。 これが、楽曲の重心を保証し、音響としての安定感を生み出す。『サージェント・ペッパーズ』←Click!!)の制作時にプロデューサーのジョージ・マーティンは何曲かの通低音にタブラを選定した。ジョージ・ハリソンがビートルズに導入したインド音楽指向がもたらした副産物なのだろう。 さて、2人のジョージが英語圏のポップス界に招き入れたタブラの低音が母国インドの映画音楽に力強くフィードバックされているのが本作。力強く、と言うのは太く、低く、という意味ね。 タブラは打楽器にしては長い余韻を残し、そこに薄い音階があるかのような錯覚を起してしまう魅惑の楽器。演奏法に詳しくはないのだけれど、音程差は確実に出ているし、サスティン(余韻)も自在に叩き分けられている。それらのコンビネーションが艶かしい抑揚を与え、饒舌に存在感を表明する。フェロモン過多の色気を持ったパーカッション。 ダンスミュージックでキックと同期して低く鳴るベース音にほとんど音階が無い(低過ぎて音階が感じられない)という現状を反転すると、非音階打楽器のタブラがキックと抜群の相性であることが理解してもらえるかと思う。 本作でシタール等のインド楽器が総動員される楽曲群が、辺境に囲い込まれることなくグローバルに主張し得ている成果は、タブラと現代ダンスミュージックの幸福な結婚の恩恵だと思う。 ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの楽曲や、女性だけのカッワーリ風楽曲も収録されている。もちろん、バングラビーツ的なニュアンスの楽曲も。そう、つまり、本作はインド系大衆音楽の集大成にして21世紀インド音楽の全世界に向けたプロパガンダ。 僕はシタール音楽をBGMにお香を焚いて瞑想するような趣味は持ったことも持ちたいと願ったことも無いけれど、こーいうインドとかねがね出会いたかった。 やっと「2人のジョージの夢」に出会えたよ。

〜歌謡曲を聴く41〜

 

★★★(2002.9.16)

『N°17/小泉今日子(3)』 リリース当時はマンマと前作『KOIZUMI IN THE HOUSE』の影に霞んでいた。藤原ヒロシなんざ、近田春夫の子分みたいなもんじゃねぇのか? ええ? おいっ! ってなもんで。偏見と先入観で耳が塞がるなんて頭悪いっスね。実際問題、本作はかなり高品質な音楽なのであって、見落とすのは損失であると認識していただきたい。 この時期の屋敷豪太が魂入れまくった日本語音楽ってのは、そもそも希少なわけでさ。 藤原屋敷班とスカパラ班に楽曲は分かれるのだが、僕は圧倒的に藤原屋敷班の楽曲が好き。リズムが大きいんだなぁ。雄大なの。 R&Bとかファンクとかレゲエとか、そんなんを全部飲み込んだような大きなビート。豪太の天才が穏やかに爆発。90年代の幕開けにふさわしい。そして、小泉さんは90年代をも引っ張る決意が確実にあった、ということ…。 ヒップホップ的な低音と小泉さんの細い歌唱が気持ちよくマッチングした、という事実は日本の音楽シーンに希望の光を与えたのだと思うんだよねぇ。そっか、歌が下手でもダンスビートに対応して高水準の音楽が創れるのかぁ、と。言い過ぎか…。 久々に聴いたのだけど、『ドライブ』でベースがスイングし始める瞬間なんかは、相変わらずゾクゾクしたなぁ。そうそう、このビートに僕は新時代の到来を確信したんだ。ホットでクールなビートの時代。 小泉さんも「時代の鼓動の中の静寂」を丹念に描き出す歌詞で応酬。ウェットでドライ。「男女(人間?)間の距離感」がテーマなのだろうか? 不安や焦燥が歌われてはいるのだけれど、音像も表現も感情の発露が無い。結果、僕は「うんうん」なんて頷きながら、メランコリーモードに心地よく落ちてしまう。大人の恋。90年代の恋。あ、それは僕だけの事情ね。。。 最終曲『グッバイ・マイ・ラブ』(アン・ルイスのカヴァ)で呆けたように微笑む僕。そうねぇ、例えるなら『未来世紀ブラジル』のラストシーンの顔。  関連(・3・

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