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メレンゲ今週のCDご紹介38

ザ・ポップ・グループ、榎本健一、マドンナ、加藤登紀子、MERCAN DEDE SECRET TRIBE、
チューリップ、エロチカ狂想曲、小泉今日子、
評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)

〜Drive to 80's Vol.24〜 

 

★★★★(2002.12.02)

『'Y'(最後の警告)/ザ・ポップ・グループ』 僕が「ファンク」を快感として体感した契機はクラッシュの数曲と本作による。パンクの延長で実感したファンクに感化されて、黒人の(本物の)ファンクを何枚か聴いた。リック・ジェームスとかマイケル・ジャクソンとかJBとか。とてつもなくカッコ良いわけなのだけれど、僕は敷居の高さを感じてしまった。パンクの延長ではなく、トレーニングされた高水準のレベルに達した音楽、と言うか。あぁ、つまり、あの頃は聴いた音楽を自分の表現能力と比較して考えていたわけですね。黒人の演奏は上手過ぎて僕には実感が湧かなかった。 一方のクラッシュはルックス100点、腕前20点のベーシストが在籍。“正確な演奏”とは別の次元で派生する「ぎこちないホワイトファンク」を体現していた。 ぎこちない、という意味で最強の衝撃性を証明した歴史的名作が本作。20年を隔てた今の耳にも鋭く突き刺さる。一瞬のインパクトに託された音が、音楽の整合感(時間の経過、と言うか…)をロールオーバーしてしまった弾丸のような手応え。滑らかな連続でなく、断片の連なり。 しかし、今の僕の耳は黒人ファンクを通過しているわけで、ファンクモードで本作を解析してしまい、そのイビツさに改めて驚愕した。 まず、演奏が恐ろしく下手であること。そして、サウンドを構成する要素が恐ろしく少ないこと。 ベースラインとハイハットだけで成立するファンクと言ってもいい。ところが音1つに込められた表現力の強さが尋常ではない。それは演奏時に指に込められた決意であり、録音・編集時の調整に深く込められた意志でもある。 ギターによる繊細な16ビートカッティングなど不在。その空間を深いエコー感が埋める。ダブからの影響なのだろう。奇妙な「空間志向」こそが「ぎこちないホワイトファンク」の本質だと思う。 ポップ・グループが提示した手法の発展例が思い浮かばない。発明の最終形態であったはずがない。なんとかしよう!

〜ワールドサイドを歩け!! 11〜

 

 

★★★☆(2002.12.02)

『エノケン芸道一代/榎本健一』 大正〜昭和初期の浅草六区とは、最も先鋭的で総合的な娯楽の本山であった。その全盛期を「レビュー時代」とするならば、浅草娯楽の全盛期は戦略と叡智によって企てられたものだと伝えられる。 エノケンをスターダムに押し上げ、空前のヒットを果した演芸場の名をカジノ・フォーリーという。田谷力三の三文オペラで勢いづく六区からは離れた四区で立地的苦戦を強いられ、借金山積であった水族館(および木馬館)の跡地に開設された新興勢力。開設の際のコンセプトは「演芸場でフランス式の新しいレビューと軽演劇を公演する」「音楽をあしらった種々の演芸で時代のトップに立つ」というもの。お手本はパリのフォーリー・ベルジェール、カシノ・ド・パリ、ムーラン・ルージュであったという。 浅草文化に通定するモダンで猥雑な印象はパリ直伝のDNAであったと言うわけだ。映画『ムーランルージュ』(←Click!!)に、浅草文化との類似性を嗅ぎ取った人も多いのではないか? それを、エロ・グロ・ナンセンスと言い切ってしまっても構わないと思うけれども、僕は文化としての基礎力の強さも強調したい。 その基礎力を確認してみたい方々に本作をお薦めする。 『ベアトリ姉ちゃん』(フランツ・フォン・ツッペのオペレッタ『ボッカチオ』の楽曲)を滑稽な日本語に置き換えた瞬間に、大衆的なニーズ枠に合わせて敷居を思いっ切り下げた「三文オペラ」が生まれた。浅草全盛期の第2世代にあたるエノケンは、三文オペラ以上の大衆レベルで間口を広げた。ヨーロッパのオペラテイストにドメスティックな文化や気分を注入し、ポップでパワフルな表現を確立。 一般的に残されたエノケン音源(←Click!!)との差異は映画や興行用の音源(つまり、別バージョン)である点。メドレースタイルで芝居がかった表現が娯楽性を格段に高めている。異文化融合があくまでもドメスティックな志で結実。 この基礎力は日本人としての宝だ。

 

 

★★★☆(2002.12.10)

『ダイ・アナザーデイ/マドンナ』 同名の007映画の主題歌。執拗にタイトルをリフレインする。 「私が死ぬのは別の日になるわ」 相変わらずダウナーな音楽。007映画ということを考えると、本当にこれで良いのかな?と思うぐらいにトーンが暗い。マドンナの路線に変更無し。 特に5曲収録されたリミックス音源が重い。ジェイムス・ボンドはたぶん最新作で死ぬのだろう、と言う気分になってくる。楽曲の歌詞に登場する「私」がボンドを想定したものとは敢えて思わないけれども、なんだか不吉。楽曲の重さと暗さは少なくとも「死ぬのは奴等だ」とは物語っていない。「ボンドとマドンナにもやがて死は訪れるのだ」という宣言に聴こえてしまう。「I guess I'll die another day」を「まだ死ぬわけにはいかないわ」というサバイバル宣言として解釈してあげたいのは僕だって山々なんだぜ。 ここまでが楽曲を聴いた第一印象。 『Radio Edit』を繰り返して聴くうちに、矢継ぎ早に登場するアレンジ上の仕掛けに躍動感を感じ始めた。こうなると僕はなんだか夢中。 ストリングスの処理が恐ろしく過激。フレージングというよりもリヴァーブ成分の多い録音と編集が、ね。アナログシンセのグニュグニュした感触にストリングスが切り込むタイミングの鋭さは、むしろ生命感を感じさせてくれる。冒頭で切り刻まれたストリングスの過激さに対比される中盤の白玉ストリングスが妙に暖かい。 プロツールズが生み出した生命感。デジタルの領域で宿った躍動感。 そうなると「I guess I'll die another day」の意味合いも不思議と変ってくるんだな。「死ぬ日なんて永遠に無いのよ」ぐらいのニュアンス。デジタルの領域では何度でも生まれ直すことが出来るわけでさ。 実際問題、マドンナが現在生息している領域とはデジタルワールドではないのか? そして、ジェイムス・ボンドの生息領域も。 そうなると、本作はマドンナとボンドからの不死身宣言か。 I guess I'll die another day.  関連(

 

〜歌謡曲を聴く47〜

 

★★★(2002.12.10)

『赤い風船/加藤登紀子』 シャンソンとかジャジィとか、そんな意味合いで存在しているシンガーだという気がするけれども、僕はかねてからフォーク期の加藤登紀子としっかりと向かい合ってみたかった。坂本龍一とのコラボレーションでドイツ等の大衆歌謡楽曲をカヴァーしたアルバム(タイトル失念)が僕にとっての加藤登紀子最高傑作であって良いものか、と。 思い余ってデビューアルバムに手をつけた。67年リリース。う〜む、と頭を抱え込む。この時代には、これがフォークなのかぁ。確かにアコースティックギターはフューチャーされているし、メロディの構造が当時のメインストリームに闊歩する流行歌とはニュアンスが若干違うと思う。マイナーコードでサビを盛り上げる構造とは別のもの。ま、60年代の流行歌をマイナーコード一本みたいに単純に定義しちゃいけないんだけどね、便宜上ね。 アズナブール等のカヴァーなんかも当時は知的な印象だったんだろうなぁ、と想像できる。しかし、僕には「楽しい60年代流行歌」の音源として聴こえるんだなぁ。弘田美枝子とか伊藤ゆかりとかいしだあゆみとか、そーいった流行歌歌手とコンピレートしたとしても、きっとフィットするはず。そう、声が流行歌っぽいんだよね。今、加藤登紀子の声に関する印象と言えば、低くて大人っぽいものなんじゃないかと思う。高いんだよ、デビュー時は。しかも、自作曲が妙にアイドルっぽいポップ楽曲だったり、マイナーコード楽曲の歌唱が薄〜〜くムード歌謡風味だったり。 とは言え、これは21世紀の耳が過去を振り返った印象に違いなく、この音源が67年には市場に異化作用を起こしたのかも知れない。その異化作用を商品力への付加価値として付与する戦略こそが「フォーク」という呼称だろう。『赤い風船』はロシア民謡とシャンソンの折衷とも言うべき新種の流行歌。この不思議な楽曲がヒットした背景には「フォーク」という看板が必要だったのだろう。

〜ワールドサイドを歩け!! 11〜

 

 

★★★(2002.12.16)

『NAR/MERCAN DEDE SECRET TRIBE』 『TVBros』誌のコラム『とびだせジャパニ!(文・サラ−ム海上)』で紹介されたトルコのニューエイジ音楽に興味を持った。音楽情報専門のコラムではないだけに、なんだか信頼できるような気がして。イルハン追っかけギャルに御土産としてねだろう、なんて書いてあったけれども、「イルハンの追っかけ」が見当たらず、トルコ関係スジを当たって入手。同時に面白い話も。 トルコの上流階級には古典信仰があり、大衆文化を軽視する。その意識の源は欧州古典コンプレックスなのではないか、と。 大衆文化を見下す輩は日本にも多いよな。それも上流階級に限らず、ね。絶対にそんな意識は無いと胸を張るアナタ。ベストセラー小説や、ミリオンヒット楽曲を軽んじた経験はありませんか? 僕はあるね(「エヘン!」と胸を張る)。いや、僕なりにその作品を受け止めている自負はあるんだよ。でも、その作品が売れてしまったという状況ゆえに扱いが辛くなっていたかもな、とも思うんだよねぇ。この辺の潔い反省に僕は再度胸を張る。胸を張り過ぎてひっくり返りそうな姿勢で発言するのも恐縮ですが、受け手の権限は評論ではないぜぇ。受け手は、「作品から得た何か」を肉体化することにおいて、メリットも(送り手よりも遥かに優遇された)特権も保証されているのであって、「論評対象として受け取る作品」という構図は、何と言うか、その、貧しいねぇ。 一方、本作購入時にCDショップの親父は「お、これ、知ってんの? センスいいね!」と誉めちぎったんだってよ。日本人の口から登る音楽では在り得なかったことに驚喜したのだろう。そんな親父の気さくな伝承によって大衆音楽は初めてグローバル化するんだぜ。そーいうのを「生産的」と呼ぶのよ。 トルコ・ニューエイジは「古典要素」満載でありながら、大衆層に娯楽レベルで強力に訴求。タルヴィン・シン←Click!!)と明確にシンクロしていますね。そう、生産的で前向きってことさ。

〜歌謡曲を聴く48〜

 

★★★(2002.12.16)

『君のために生まれかわろう/チューリップ(2)』 2作目にして、早くも良好な構成バランス。 軽快なピアノフレーズと躍動するドラミングが御機嫌な冒頭曲から、『ブラックバード』を思わせるアコースティックな2曲目への連携が、『The BEATLES(White Album)』のようにバラバラなベクトルの構成を察知させるけれども、本作の方が断然まとまりがあると思うな。デビュー2作目だと言うのに、『Abbey Road』を想定したかのようなメドレーも飛び出す。そう言えば、前作←Click!!)は『Let It Be』的な印象だ。クイーンも2作目でメドレーをやったけれど、「ビートルズ追随組」の制作意欲は性急だね、まったく。 露骨な「ビートルズ楽曲」は少ない(思わず『Let It Be』を歌い出してしまいそうになる一曲は除く)けれど、薄っすらと(そして、露骨に)ビートルズのアレンジが引用されている。おっ、まじで『Abbey Road』のつもりだったんだ、なんつってニヤニヤするのも楽しい。 と、まあ、トータルにまとまったアルバムではあるのだけれど、「核」が無いなぁ。必殺の一曲が無い。結果、全体が行儀良く収まってしまった印象。淡いね。 その分、僕は細部のアレンジをほじくるわけなんだけど、その素晴らしさにウットリ。ドラムのハイハットワークやフィルインはまんまプログラミングしてみたい欲求にかられる程イカしているし、ベースはタイミングもフレーズもユニーク。そして、最も耳を引くアコースティックギターのフレージングの見事さは、ポールみたいだ。あ、「ポール」って、マッカートニーじゃなくて、サイモンの方ね。『雨が』のツインバッキングは、本当に雨垂れを思わせる名演で、耳が雫で濡れそうだ。アップテンポ曲でのアコースティックバッキングとか、楽器の選択は本当に上手いなぁ。パーカッションの選択も抜群。 ただし、全体に音がコモっているのが非常に残念。同じソースをギラギラしたトーンでリミックスしたら、本作はとてつもない名作として蘇るはずだ。  関連(

 

★★★(2002.12.25)

『エロチカ狂想曲/VA』 高浪敬太郎のコンパイルによる邦画の挿入歌や劇伴集。 で、その「邦画」が問題なんだけど、本作のカテゴリーはいわゆるポルノ映画・成人映画・お色気映画の類。全29曲中28曲が日活、残り1曲は大映。日活ロマンポルノで統一すればいいのに、と思うけれど、大映からのピックアップが『でんきくらげシリーズ』、渥美マリ歌唱による歌モノ。許す! 全29曲中24曲が1970年代上映の作品から採取。全29曲中24曲がインストゥルメンタル。しかるべき施設のしかるべき環境(照明とか喧騒とか)の中でしかるべき音響で鳴らしたならば、かなりサイケでボヘミアンでクールな音源。そう、お洒落な音楽として機能すると思う。本作を聴いて「70年代のグルーヴは…」なんつって薀蓄を語る輩もいるのだろう。ま、実際にその価値はあると思うし。 しかしなぁ、これ、ポルノ映画のBGMだぜぇ。ロマンポルノを観た経験のある人ならばよ〜く御存知かとは思いますが、ポルノ映画の劇伴なんて本当に添え物なんだぜぇ。ジャックスの貴重な演奏であってさえも、裸や濡れ場の添え物なんだぜぇ。台詞のある芝居や濡れ場以外のイメージシーン(っつうか、主人公が街を彷徨うシ−ンとか、そんなの)や、スタッフロールの無音状態を回避する為の処置みたいなもんなんだぜぇ。 少なくとも僕はポルノ映画を観て音楽に注意を払ったことはなかったね。ところがどうよ? こうやって、裸と独立させた劇伴は紛れも無く「音楽」だ! それも、上質と呼んで差し支えの無い「音楽」だ。 ここまでの文章を読み返してハタと気付く。ポルノ映画と「音楽」の愛好家を自認する僕が、ポルノ映画で鳴っている音楽を侮蔑していたんじゃんか! ポルノの背後で鳴る音楽にロクなもんは無ぇ、と高を括った挙句がこのショックだ。 作家&演奏陣に近田春夫、宇崎竜童、細野晴臣、本多俊之、三枝成章、クリエイションなどの名前を見つけ、僕は深く反省。

〜歌謡曲を聴く49〜

 

★★★☆(2002.12.25)

『KOIZUMI IN THE HOUSE/小泉今日子(4)』 「過激の遍歴」である小泉伝説の中で最も過激だった音楽は間違いなく本作だろう。近田春夫(及びビブラストーン人脈)、井上ヨシマサ、小西康陽らによる歌詞もサウンドも行き過ぎた音楽。 冒頭からクールに全開する近田のトラックが「ただ事ではない」ことを宣言。挑発的だ。サビでは“いかにもな歌謡曲”をやるくせに、コードチェンジを抑えに抑えたA・Bメロが焦らしに焦らす。延々とループするコードの中ですら、可愛らしい叙情が存在し得るという「コペルニクス的転回」を実証したのが本作の凄みだ。いつになく太い印象の小泉サンの声は、まるで「夜の気配」でベットリと濡れて輝いているかのようだ。問題作『好奇心7000』←Click!!)では「闇の気配」が忍び寄る。いや、これは実にヤバい。 夜や闇の中でだけ光り輝く音楽がこの世には確実に在ると思う。演歌やムード歌謡も、その1つかも知れない。しかし、もっと快楽的でアンモラルで、それでいて、美しい音楽。本作が提示した1つの解答がハウスだ。都市のネオンに照らし出されたダンス音楽、と言い換えてもいい。その辺の悦楽を小泉サンは『音楽』という楽曲で表明する。「濃いというだけで/たまらないことが/この世にひとつある」。あぁ、そんな台詞を誰かに言って欲しかったんだ。発言者があの時代の小泉サンであったことは僕にとって幸福な経験だ。 合コンやライトなアシッドなんぞじゃ獲得出来っこない“真の享楽”を味わってみたいキミは迷わずに、このアルバムに戻って来たらいい。ここで待つ小泉サンは「夜の音楽の女王」だ。モノトーンのジャケ写で冷たく微笑むカラーコンタクトの小泉サン。まるで、闇の中で薄く発光するブラックライト。 身体とは分離した頭だけが爆発しそうに先走る喧騒(「音楽は時間を濃密にする/すべての瞬間に意味を与える」)の中で、小泉サンは唐突に呟く。「こんなこと毎日してたら死んじゃう」。 あぁ、良い気持ちだ。 関連(

〜Drive to 80's Vol.25〜 

 

★★★★(2002.12.30)

『ロンドン・コーリング/ザ・クラッシュ』 ザ・クラッシュ! ロンドンパンクというカテゴリーの中で犇めく無数のバンドの中でひときわでっかく輝く明星。確実に時代を作り、発展し、そして崩壊。 「パンク世代」であることを謳い文句にしている僕ですが、パンクとの出会いは決して幸福なものではなかった。セックス・ピストルズのシングルを聴いた時に、「で? ボウイーのロックンロールより何が凄いわけ?」と反発してしまい、音楽も決して発展的なスタイルとは思えなかった。 音の整合感が低い(っつうか、雑な作りの)ダムドとクラッシュの初期作を聴いてようやく「パンクには何かがあるかも…」という気分になった次第。なんだか、評論家っぽい受け取り方で我ながらイケ好かないね。 僕がクラッシュに惚れた契機は、間違いなく本作。だって、音楽的なんだもん。「USAのクソったれ!」なんて叫ぶよりも、米国の音楽を大雑把に吸収するシタタカさの方が僕には好きな態度だな。ライト感覚のポップアルバムだとか、キーボードが入っているのが軟弱だとか、ワケわかんない批判も多かったけれど、「そんなに嫌なら、クラッシュをパンクって呼ばなきゃいいじゃねぇか!」と僕は憤った。リリース時の79年にはパンクなんて終っていたんだぜ、ロンドンでは! な〜んて、日本ではパンクが始まろうとしていた時代なんだもんな、その批判も理解できるんだけどな。 実はデビュー時から、とっくにポップだったクラッシュが自身の音楽才能を強烈に解放した本作。引き出しの広さに恐れ入る。オールドアメリカやアイリッシュ、そしてダブやファンクを手際よくミクスチャーするセンスの良さに脱帽。 時系列で見たら、ロンドンパンクはグラムロックの遺伝子を持っているわけで、ミクスチャーや「新発明」の制作姿勢を宿命的に持っているのは当然だと思うのだけれども、常に「初期衝動」の激しさだけを要求されたパンクアーティストのジレンマに対する抜群のカウンターが本作だ。 「パンク」という範疇を踏み越えない意固地な表現力がむしろクレバー。一点に向かって縮小しかねないパンクのベクトルを点から無限への拡散ベクトルに転位させた、というか。そうそう、パンクに「音楽」としての品位を与えた、と言うべきか。 ピート・タウンジェントの言葉を思い出す。「クラッシュは本当は演奏が上手いくせに、わざと下手に演奏してやがる」 そうなんだよ、クラッシュはパンクを確立・定着・発展させる為にスターとして振舞ったグループなのであって、21世紀にもパンク音楽が存在するのは彼等がいてくれたからなんだぜ。 ジョー・ストラマーの魂は永遠にがなり続けるだろう。何年経っても。何百年経っても。  関連

〜Drive to 80's Vol.26〜 

 

★★★★(2002.12.30)

『ノン・ストップ・エロティック・キャバレー/ソフト・セル』 シンセサイザーやリズムマシーンの音が好きだ。 テクノポップを指して、「ピコピコ」とか「無機質」とか「非人間的」とか(批判的に)言われていた時代にも、そんなサウンドが好きでたまらなかった。 60年代末期〈多分〉からポップミュージックの世界に登場したシンセサイザーとは、既存楽器の代用というか、シミュレーションみたいなもんだったんじゃないか、と思う。ビートルズとか一連のプログレバンドでのシンセサイザーは「変な音(妙な音色や、不安定なピッチとか)のストリングス」みたいな扱いだったんじゃないか、と思う。だって、多くはメロディ楽器や(時に)コード楽器として機能していたもんねぇ。 一方、クラフトワーク以降(そんな気がするんだけど、調べたわけじゃないので、僕の推測)のシンセサイザーは楽器と言うよりも機械っぽいのが良い。良いったら良い。メロディやコードから独立した電子音が「ピピッ」などとリズム的に発信されただけでも、充分に世界を一変させてしまうような存在感。SE的。この流れは、ターンテーブルがレコード再生機から楽器に変貌した過程と逆ですね。楽器から機械に変貌(進化? 退化?)したシンセサイザー、僕は好きだ。 リズムマシーンはスライの昔から、「ドラムの代用であって、代用ではない」といったアイコン化にとっくに成功していたのだと思う。80年代には完全にドラムをシミュレートしたプログラミングも見受けられたけれど、僕は“いかにもな機械ビート”の方が好きだな。 シンセサイザーとリズムマシーンが理想的に鳴っている音楽が僕は好きだ。だから、ソフトセルのデビューアルバムは大好きだ。 本作を僕は毎日、空気を吸い込むように聴いていた。単純に聴き込んだ回数で言ったら、スパークスの『キモノ・マイ・ハウス』に次ぐ歴代2位が本作。いわゆる「禁断症状系」アルバム。 とある音楽雑誌で本作に関する批評として「饒舌すぎるボーカル」というものがあり、僕は首をヒネッた。あれ? そうだっけか? マーク・アーモンドのボーカルに意識を集中させて聴いてみたら、これが確かに饒舌。しつこい。何百回も聴き込んだアルバムなのに、僕はそのことに気付いていなかった。否応なしに僕とソフトセルの関係を理解したさ。僕は本作が鳴らしているシンセサイザーとリズムマシーンの音しか感じていなかったんだ。 僕にとってのソフトセルはデイヴ・ボールだった。間違いなく。 2002年、僕の意識はシンセサイザーの根源的な魅力に強く立ち返っていた。2003年の良質なテクノポップに強く期待。強く。  関連(マーク・アーモンド

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