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★★★★ (2003.3.10)
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『加爾基 精液 栗ノ花(カルキ・ザーメン・クリノハナ)/椎名林檎』 嗚呼…。 もはや、椎名林檎には「怖いもの」など無いのだろうか。僕にとっては、「怖いもの」=「恐ろしくてたまらない音楽家」が誕生してしまった。勿論、椎名林檎のことだ。 林檎の過去の表現は、その本質から考えたら器が脆弱だったと思う。意図的に崩したサウンドさえも妙に「企み」が見えてしまい、彼女の「凄絶な本能」とは直結していなかったような気がしていた。凡人の頭で思考した上限いっぱいの危険さに過ぎない、と言うか。そのことに不満を感じるというよりも、僕は林檎の「凄絶な本能」自体を巧妙な演技(=凡人の作為)として疑いかけていた。また、林檎の興味はサウンドに向いていないのかな、などと割り切っていた。 本作のサウンドは「林檎の本能、もしくは生理」が剥き出された神経のレベルで、こちらの神経細胞にプラグインする。鮮血滴る林檎の動脈と静脈を僕の腕に突き刺したような気分だ。 林檎が神経で感じる「時間の経過」に対する愛着と憎悪みたいなものを強いられる。こちらが想定する5秒後の未来をことごとく塗り替えられる。急激に変化するサウンドバランスが僕の心臓をバクバクさせる。頭が破裂しそうだ。椎名林檎が僕に起こっている状態と同じ心臓と脳味噌で楽曲展開を感じているのかな?などと思うと、無性に感謝がしたくなる。手を合わせてアリガタヤ、と。嗚呼、林檎は観音菩薩か…。もっと、告白させてくれる?
僕は、本作を聴いた人間が、皆この時間経過を共有したのだと思ったら、無性に幸福感で包まれた。林檎の動脈と静脈で完全に繋がった「神経ネットワーク」のイメージが完全に描けた。嗚呼、林檎教団。生まれて初めて、僕は御布施をしたいです。 人間の作為による仕掛けだらけのサウンドではあるし、よくよく聴けば安定したポップ楽曲ではある。紛れも無くこれは音楽である。 しかし、そんな受け取り方は勿体無いんじゃないでしょうか? 耳なんか塞いで、血管を開いて…。 (関連)
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〜Drive to 80's
Vol.29〜
★★★(2003.03.10)
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『Edges of Dream/E.D.P.S.』 衝撃のデビュー盤と集大成的なライヴ盤の狭間でリリースされたエアポケット的なアルバム。オリジナルメンバーによる唯一のスタジオ盤。 久々に聴いた。制作は19年前。 全体にリバーブが過剰。あの当時は「本格的なサウンドメイキング」って気がしていたけれど、今の耳にはちょっと嫌味かも。時代は流れたのだ。 存命中のEDPSに対する僕の認識はオルタナティヴファンク。実を言えば、あの頃の僕はファンクを聴いていなかった。一旦ファンクを通過した耳で聴く本作はファンクとは違う。少ないコードでベースラインをリピートする楽曲においてさえも、リズム(特にドラムス)の自由度が高く、1つのグルーヴに安定しない。エモーショナルな瞬発衝動によって繰り出されるフレキシブルなフレーズ。言い方を替えれば、思いつきのフレーズ。BOYは緻密な計算で叩くドラマーじゃないからね。VANILLAも懸命にフレーズを逸脱する。 エモーショナル、フレキシブルといった形容は恒松正敏のギタープレイにこそ該当するものであり、恒松の音楽的思想がバンド全体に貫かれていたことが判る。 ドラムスだけが左右への広がりを作り出し、ギター、ベース、ボーカルが中央に集中するというミックスダウンの中で、決して大きなボリュームを与えられていない恒松のギターが悲痛に突き刺さってくる。自らの情念を偶発的なギターサウンドに込める能力においては唯一無比。情念、偶発といったキーワードは恒松の絵画にも貫かれている。彼のイメージ通りのストイックなキーワードだが、僕はもう1つ加えたいね。それは、ロマンティズム。最終曲『Day
Break』に代表されるバラードには恒松のメロメロなロマンティズムが露呈。美しい。 以前から思っていたのだけど、歌声が森園勝利に似ているよね。 一人のファンとして貴方を呼ぶ時には「恒松(またはツネマツ)」がシックリくるので押し通しましたが、いかがですか?>マッちゃん (関連・フリクション)
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★★★(2003.3.17)
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『200 KM/H IN THE WRONG LANE/t.A.T.u.(タトゥー)』 ハイスクール風制服(っつうか、一世代前のコギャル風)、2人のレズ関係を唆すビデオクリップ。 で、ていうか…(by
カボヅカ君)。 ただそれだけのことが、そんなにスキャンダラスですかぁ、今更…。 とは、言いながら、僕はこの手のポップ音楽には速攻で飛びつくのよね。シャンプーの時も青筋立てて…。 不満顔のティーンエイジャー・反抗ギャルポップスって大好きなんだもん。ま、こいつらはギリギリ10代って年齢なんだけどな。 トレバー・ホーンのプロデュース。絶妙にセンスが古い。シンセの音色なんかは80年代末〜90年代初頭のニュアンス。リズムプログラミングも垢抜けていない印象。モヤモヤしたアンビエントがウザい(特に前半)。 タトゥーのコンセプト同様に斬新は一切感じないのだけれど、15年前のテイストを現代に再構築する試みにおいては聴き所も多い。MIDIピアノの音も使い方次第では美しいもんだな、とか。「あ〜、このサックス〜」なんつって思わず膝を叩いてしまう、とか。 ボーカルは全然怒っていないのだけど、2人の声のコンビネーション、良いね〜。一方が消え入りそうな清楚声で嘆きながら、ちょいハスキーの他方が細いシャウトで軽く苛立つ、みたいな箇所では、なかなかに胸が詰まる。あ、単純な僕でごめんなさいね。 歌詞は他愛無い10代の少女の焦燥感。ゲイの男性への恋慕を歌った『マルチック・ゲイ』(歌詞もサウンドも一番気に入った!)でさえも、ゲイカルチャーを何ひとつ語っていない。彼女達のレズ関係はポーズでしょうよ。おっと、皆、わかってるんだよね?
ねっ? 彼女達の母国語であるロシア語のパートが抜群に良かった。メロディもロシア語を薄く意識したものだし、語感が不思議にリズミックで。個人的にはロシア語でインモラルな不満・反抗ポップスが聴きたかったな。ワールドワイド市場攻略という意味で、英語版&レズムードの本作の戦略は正しいと思うけれど。
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〜ワールドサイドを
歩け!! 14〜
★★★☆(2003.3.17)
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『音楽図鑑/坂本龍一』 僕がYMO関連で最も回数を聴いたアルバムは自信を持って本作。久々に聴いたが古くはなかった。 テクノポップのみならず、思想をも含んだニューカルチャーの旗手として燦然と脚光を浴びていた時代のYMOが純音楽的な能力を剥き出しにする本作。「ほとんどビョーキ」でなくとも、新人類でなくとも、耳が純粋に楽しめるアルバム。理屈が少ないのが良い。 余分なフィルター(情報やポーズ)を排除した高橋ユキヒロと細野晴臣のプレイが何しろ素晴らしい。タメの利いた細野さんのベースに、ジャストテンポのユキヒロドラムが何故かシンクロ。しかも完璧に揃っている。不思議なリズムなのだけど、とても自然。YMOが新しいファンクのスタイルであったことを完全に証明している。坂本教授のリズム感って、タメの無いジャスト指向だと僕は睨むのだけど、細野さんが一枚加わることで、良い意味で複雑化しているよね。 それから、本作でのシンセと坂本教授の距離感が好きだな。YMOでは戦略上、シンセに振り回される役割を受け入れていたと思うのだけれど、本作での坂本教授はシンセを完全にツールとして扱っている。プロフェット5のスペックを100%引き出していると思うな。当時、教授はガムランやケチャとテクノの類似性を指摘していたけれど、僕の個人見解では、その根拠はプロフェット5のサウンドにあると思う。メロディ機能を持ったパーカッシブなサウンド。しかも、清み切った音。濁りが無い分だけ、アタックのインパクトが強い。つまり、パーカッシブ。 YMOの方針そのものがテクノ=ワールドミュージックという発想だったのだとは思うけれども、戦略的な乱反射によって伝わり難い側面もあったように思う。っつか、僕にとってはワールドの純度が低かった。屈折率が高過ぎたよな。 今振り返ったら安直なアイディアになってしまったとは思うのだけれど、一曲ぐらいミック・カーンのベースが聴きたかったな。
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〜ワールドサイドを
歩け!! 15〜
★★★☆(2003.3.24)
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『ウエスト・サイド・ストーリー/レナード・バーンスタイン指揮』 トリビュート等によるカヴァ企画で明確に理解出来たことは、楽曲によってはオリジナルバージョンこそが唯一絶対に正しいものと、他者が扱っても楽曲の質が確保されるものとが在るということだった。あ、当たり前のことですけどね・・・。 ビートルズのカヴァなどには、「メロディをなぞったって意味ねぇんだよ、ジョンやポールが歌わなければね」というものがある。いや、ポール自身がオリジナルを下回る例さえも、ね。 しかし、この世の中には「オリジナルってどれなの?」という音楽がある。レコード媒体によって世間に公開されない音楽なんかはそれに該当。クラシック音楽とかね。そして、ミュージカル。 さて、弱った。僕にとって『ウエスト・サイド物語』のオリジナルは映画版なんだよね。でも、違うんだよね・・・。 舞台で公開された音楽劇が映画化され、現代様々なパッケージで流通しているが為にスタンダード化。娯楽商品はパッケージ化されると足が速くなるからね。 パッケージ化された音楽が標準、と捉えている僕の歪んだセンスに本作は恵みの雨を施す、シトシトと。シトシト、と。 構成や尺が違う、演出が違う、歌詞も微妙に違う。収録順が違う(『アメリカ』の後が『クール』かよっ!)。アレンジの骨子は同じだけれど、微妙に違う。歌手は当然違う。 オーケストラの音が柔らかく、歌手が雄大に歌い込んでいるから、全体に甘口ではある。映画版は映像の印象もあるのだろうけれど、もっと激しい。音が割れ始めるギリギリまでフェーダーが上がっている、と言うか。複数の歌手による合唱にバラつきがあっても、勢いのあるテイクに「OK」が出ているんじゃないか、と。いや、その前に歌い手の激情自体が激しかったと思う。しかし、そんな勢いに押され気味だった僕の耳は本作で音楽に引き戻される。 そして、バーンスタインの仕業に鳥肌。 いや、改めて、完璧ですね。完璧。 『ウエスト・サイド物語』の音楽は完璧です。 (関連) |
〜歌謡曲を聴く54〜

★★★☆(2003.3.24)
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『TAKE OFF 離陸/チューリップ(4)』 僕にとって、初めて聴いたチューリップのアルバムが本作だったので思い入れも深い。フォークブームの時代で、まだビートルズを聴いていなかった僕は洗練されたメロディに一発で夢中になった。ガロとチューリップには「都市」の匂いがしたっけな。 今になって理解出来ることなのだけれど、本作の時期には英国のポストビートルズ勢とのシンクロもあったのだろう。パイロットとかバッドフィンガーを感じさせるアプローチに気付く。 「恋から愛への変貌」がアルバムテーマらしいけど、音楽的にバンドも変貌している。サウンドは圧倒的に向上。適量の音数で音圧が増幅している。特にドラムス。ヘヴィロックじゃないのに、パワフル。カッコいい。 アレンジもかなりモダンになった。『そんな時』のようなサイモン&ガーファンクル的アコースティック楽曲は以前からの十八番なのだけど、途中からキックが単体で登場する瞬間はむちゃくちゃスマートだ。 『心の旅』ヒットの余波なのだろうけど、姫野達也のフューチャー度が向上。リード、コーラスを姫野のダビングで成立させていたり。ポール・マッカートニーの小作品みたいな味わいで粋ですね。 粋と言えば、本作にはビートルズだけでなく、キンクスなんかの匂いも感じる。ま、アレンジのせいで最終的に露骨にビートルズ化しちゃうんですけどね。(『見すごしていた愛』なんかは、後にビートルズの『ブルドッグ』を聴いた時に吹き出しちまいました。) コンセプト期のキンクスやホワイトアルバムのポールが好きな人には楽しいアルバムだと思います。 『青春の影』がシングルとアルバムでバージョンが違うのも、当時の僕には驚きでしたね。ま、『レット・イット・ビー』の事情を知っていれば、「なるほど…」って話なんだけど。 最後のメドレーには『アビ−・ロード』的な仕掛けも見えるけれど、『ラム』あたりのポール・マッカートニーのセンスを拝借しているような気がするな。 (関連1・2・3・4・5・6) |
〜ワールドサイドを
歩け!! 16〜
★★★☆(2003.3.31)
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『nil dunyasi/nil』 このディスクを異国のエキゾティズムとしてリスニングするのは実に心地良い。トルコ民謡のエッセンスを取り入れたメロディ&歌唱(勿論、トルコ語)と、世界標準のダンスフォーマットに基づいたリズムトラック。ドメスティックなエッセンスと世界各国対応の標準化のバランスが適切。バックトラックに感じるエスニック成分がバイオリンやギター(トルコ特有の弦楽器?)のエキゾ・メロディだったり、謎のパーカッションだったりするわけなのだけど、これも標準化されたリズムトラックの上で適切な装飾を彩る。つまり、頻度が少ない。 歌唱にも米国R&B的な色合いが濃く、要所要所でコブシが挿入される程度なので、「完全な民族音楽」として身構える必要は無い。平常にリスニングして、ふと気付けば、「どこか違う」。そんなバランスのエキゾティズム。 で、ふと、思った。 この音楽のポジションに該当する日本の音楽って何なんだろう? モダニズムとドメスティックのバランスを適切に取った音楽、ね。 矢野顕子やミカ・バンドやシブがき隊のインチキ・ジャポニズムまで思い出してみたけれど、もうひとつシックリ来ない。元ちとせを考えてみて、初めてピントが合っては来るような気がするのだけれど、やっぱりひっかかる。つまり、これらの日本人アーティストの楽曲を聴く日本人リスナーのリスニング態度って、最初から「ニッポンというエキゾティズム」を覚悟していないかぁ?
「ニッポンのドメスティック」って僕等にとって、「オルタナティブな民族音楽」として認識されていないかぁ? ナショナリズムを振りかざして嘆いてみせる気は毛頭無いけれど、なんだかなぁ。国際力が無い、って意味だもん。(戦後日本政治と似ていますね) その鎖国的環境がニッポンの音楽市場を驚異的に拡大したこともまた事実。 しかし、僕は、本作のような優秀なポップ音楽を聴くと淋しい気持ちになってしまう。 嘆く前に立て、ということか・・・。 (関連) |
〜歌謡曲を観る〜
★★★☆(2003.3.31)
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『映像ザ・モーニング娘。 2/モーニング娘。』 ちょい掟破り。DVDソフトなんですけどぉ・・・。 モーニング娘。の 『I
WISH』〜『ここにいるぜぇ!』までのシングル7曲のプロモーション映像集。個人的には最も動向が気になっていた時期のモー娘。だ。 音楽だけを聴いていた時にも充分に楽しんだ楽曲が映像によって更に魅力を増していることに驚いた。僕は音楽に映像が付加されると耳の集中力が落ちるので音楽映像は好きではなかった。それに、映像ソフトの再生環境が充実していないので、音楽の質自体が劣化しちゃうのよね。ま、個人的な事情ね。 全曲に施された演出が楽しい。男子トイレの清掃に励む水兵さんとか、ゴールドハンターみたいなコスプレや舞台。振り付けは複雑で愛嬌があるし、必ず2種類以上のコスチューム(ジャケット撮影用とステージ用に流用されているってわけだと思う)でお色直しがあるのも飽きさせない。異常な量のカット数がテンポよく切り替わる。その音楽に内在された過剰な情報量を視覚的に実現。目も耳もチカチカする。そして、その全てが人工的。プロの作為、と言うか。その作為の中で素材として、自己のキャラクターを提供するメンバーの資質が、また良い。チャーミング。各自がカメラに対して強い意識を放出している。フレーム単位で有効な顔や仕草(安部なつみ、石川梨華に顕著)。 お手軽なCG処理や、馬鹿馬鹿しい特撮も僕は素直に受け止められた。人工美っつう意味ではオールOK。もっとも、「人口美」というエクスキューズに寄りかかった方針が現在の彼女達のポジションに反映されてしまったとも思うわけなのだけれど。 撮影現場で思いついたままダラダラと溜め込んだ素材を編集工程の力技でまとめあげる制作方針にも気付く。これは彼女達の音楽にも言えますね。 おかげで素材の微妙なブレが活きている。『THE☆PEACE!』のイントロ&コーダの吉澤ひとみの動き。あれが補正もカットもされなかったことで、あの絵は魅力を増したね! (関連1・2) |
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〜200回記念 1〜

★★★★☆(2003.4.7)
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『トミー/ザ・フー』 神様がこんな御褒美を僕にくれるとする。 歴史を逆戻って、僕が望むレコード作品の作者にしてあげよう、と。クレジットだけを頂戴しても仕方が無いから、発案から制作のプロセスを作者として味わうことが出来る、という条件にしておこう。 意外にも、僕は迷いませんね。僕が選ぶレコードは『Sgt.ペッパーズ』でも『ペットサウンズ』でもないですね。プリンスやザッパに成り代わって、その能力を肌で味わえるとしたら、それも魅力だけれど…。せっかくだから超名作の作者という栄誉も欲しいし…。 絶対に『トミー』の作者にさせてください、神様! ポップ音楽の定義を根底で律儀に守ったまま、ポップ音楽の枠組みを大きく逸脱したロックオペラ。ヘヴィなテーマを扱ったドラマ仕立ての構成は不自由な制作条件を強要したと思われるが、結果的には信じられない程の自由を獲得している。アンビバレンツな要素を全て飲み込んでしまう「大きな表現」。 もっと挙げてみようか。 中心となるシンガーは決して上手ではないが、『トミー』で聴く歌唱は僕をウットリさせる。また、リズム隊は(どう考えても)常識的でない。多様な音楽性に対応するには足枷が多いバンド。それがザ・フーだ。しかし、『トミー』には音楽の全てが詰まっている。ポップ音楽に留まらず、交響曲さえも内包する「大きな音楽」。聴くたびに、オーケストラが導入されていない事実に驚く。僕の中ではフルオーケストラで鳴らされた壮大で緻密なスコアの印象があるのね。「ここで、バイオリンが…。いや、待てよ。バイオリンなんか鳴っていないじゃないか!」と毎度毎度。決して僕の中で完結してくれない音楽。聴くたびに新鮮。 さて、神様からの御褒美で、『トミー』の作者にさせていただく僕ではある。つまり、僕はピート・タウンジェント、ってわけだ。 困った。 どこから手をつけたら良いのか判らない…。 まず、ドラマのプロットを考える?
それとも、試しに一曲作ってみる? せっかくだから、その一曲のアレンジは完璧にした方が良い? リハーサルする? で、その一曲と他の楽曲の因果は?
因果って歌詞だけじゃなくて、曲調も。 ここは壮大に…。え? オーケストラはNGなのぉ!? ライブで完全に再現するってぇっ!?
たった4人で再現〜!? 無理だよ、それはっ! ・・・。 なんだよ、制作前に頓挫かよ。う〜む、ピート・タウンジェントは、こんな苦悩を全部乗り越えたのかぁ。 ここはひとつ…。本作のテーマのモチベーションとなったに違いない「コンプレックス」を僕も深く感じるところからは始めるってのはどうだろう? うへっ、先が長いや。 しかも、僕だってコンプレックスは山ほど持っているよ、とっくに。しかも、ピートの志の高さに対してコンプレックスをまた1つ増やしたようなもので…。ピート、貴方は偉大すぎます。 そして、たった今、卑屈にうな垂れた僕の為に『トミー』という音楽が待っていてくれるのです。 『トミー』は偉大すぎます。 (関連1・2・3・4・5) |
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〜200回記念 1〜

★★★★(2003.4.7)
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『びっくり電話 ハウ・ディア・ユー/10cc』 僕はポップ音楽を聴く上では恵まれた時代に生まれ、育ったと誇りに思う。 そりゃ、ロカビリーにもビートルズにもグラムロックにも間に合わなかった。ヒップホップにはやや早かった。 僕が初めて体験したムーブメントはパンクロックだ。10代の瑞々しい感性でパンクおよびニューウェーヴが時代に切り込んでいく様を体験し、また、その動きに加担した。世代的な条件を考えてもプラマイ数年の幅の中で生まれ、ポップ音楽に夢中になっていた人間だけの特権。へへへ、悪りぃね! しかし、僕には他にも自慢がある。これは地味なのだけれど、なかなかにパワフルな自慢。 僕は中学生の時に10ccを聴いていた。 ビートルズ消滅後の英国にプログレッシブロックとハードロックの嵐が吹き荒れたのは御存知の通り。しかし、ビートルズの魂は絶やされずに脈々と継承されていた。ポール・マッカートニーはウイングスを率いて70年代モードを獲得していたし、ラジオのヒットパレードからはパイロットやクイーンのシングル楽曲が流れていた。エルトン・ジョンはAORシンガーではなかった! こんな時代に僕は洋楽に入門。実のところ、プログレやハードロックが聴きたかったのだけれど、さしあたってラジオ聴くわけさ。レコードを買うお金が無いし。すると騒々しくは無いけれど、妙にスマートなポップソングが流れるわけさ。僕はそうやって自分のスタンダードを築いていた、無意識に。 そして、出会ったのが本作。生意気な中学生だった僕は何度も何度も繰り返して聴いた。ポップ音楽の標準と非標準の区別なんて知らないから、何も考えずに受け入れた。聴きながらメロディを口づさむ。道を歩きながら、全曲を鼻歌で歌えたね。 後年、ビートルズの作曲法に興味を持って、ちょっと詳しい奴に「転調」についてレクチャーを受けた僕。「な、この感じがちょっと変だろ?」なんて得意気に教えてくれる友人。今となっては申し訳ないのだけれど、僕はあまり驚かなかった。だって、それは「標準」だよぉ!
僕が中学生の頃、10ccがやってたことじゃんか! ディミニッシュコードを覚えた時も「あ、10ccだ!」なんて思ったな。 21世紀に聴く本作は、やはり名曲揃い。ポップではあるのだけれど、グニャグニャした印象がある。使用コードや転調のせいだろう。ヒネクレ方は尋常ではない。そして、僕には相変わらず全曲を口づさむことが出来る。 さて、最後にとっておきの自慢(および10ccの脅威)を。中学3年生の夏休みに作詞作曲の宿題が出された。音大を出たばかりの若くて情熱的な音楽教師(♂)の授業方針(ビートルズのレコードを鑑賞するとか、流行歌をアレンジして合唱するとか)が僕は大好きだったので、夢中になって取り掛かった。僕の処女作を先生は譜面を見ながら「ふ〜ん」と唸り、ピアノで伴奏をつけて歌ってくれた。 その時の楽曲を後年になって分析した僕も「ふ〜ん」と唸った。シッカリと転調していたからである。 |