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〜名盤山脈
12〜

★★★★(2003.10.06)
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『アバンダンド・ランチョネット/ホール&オーツ』 美しい音楽を聴くと耳や脳だけでなく、精神が浄化される。僕はともすれば刺激の強い音楽を好んで聴いてしまうのだけれど、魂を浄化してくれる音楽が無ければ生きていけない。 では、「美しい音楽」とは、どんな音楽か? 美しい和声やメロディを適切なリズムが支える楽曲、が必要ですね。それが第一条件。歌唱や演奏が技術的、音色的に優れていなければならないのが条件の二。それが録音物であるならば、歌や演奏をキレイな響きで採取して、適切にバランスをとること。書いていて呆れるぐらいに当たり前の話ですね。 しかし、その当たり前の音楽が提示されることは、実に非凡なことなのであって、僕はそんなに多くの「美しい音楽」を挙げることが出来ない。そう、かなりハードルを上げたレベルで話を進行していますからね。シビアな条件を満たす音楽が見当たらない。僕もアナタも途方に暮れています。 ご安心を。本作は「美しい音楽」ですから。 まだ黒いホール&オーツの穏やかにしてタフなメロディ。針の穴を通すような繊細なハーモニー、そして、抑制されつつもワイルドさを垣間見せる歌唱。むちゃくちゃ、歌が上手い。上手いだけではなく、各々の歌唱ニュアンスに魂が込められている。また、楽器自体の「鳴り」が伝わってくる演奏が素晴らしい。アコースティックギターに、ピアノ、ベース、ソフトなタッチのドラムス。ハイハットとスネアのコンビネーションが耳と脳の中の油分を分解してくれる。酸化防止・老化防止に、ぜひ! 電気ギターやサックス、電気バイオリンのアドリブが色を添え、隠し味にシンセ。非凡ですね。 当たり前でないアイディアや技術や能力を駆使して、実にサッパリと当たり前の音楽を聴かせてくれる。 こういう音楽を歴史の中での位置付けみたいな話で済ませちゃいけません。「美しい音楽」とは、それを聴いたアナタの「次の一歩」を促すものなんだからね。 言ったろ? 耳と脳と精神を浄化させる、って。 させろよ!
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〜Drive to 80's Vol.41〜
★★(2003.10.06)
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『H2O/ホール&オーツ』 「コッチ側」って言葉を使う人間がいるでしょ?
意図さえ一致すれば、別の言葉で置き換えても構わないのだけど。 つまり、壁を挟んで「味方」と「敵」に分類するのがお好きな人。大概は、「コッチ側」=「自分が属する側」=「偉い側」を意味する。「偉い」とかの言葉にだけ反応されても困るので、謙虚に正直に意図を咀嚼してくださいね。 この図式は「コッチ側」の優位を称えると同時に「アッチ側」への非難や軽視を匂わすわけですよ。時に「アッチ側」非難に会話の意図があったりして。 本作のリリースは84年。僕は「コッチ側」にいて、「アッチ側」の連中が賞賛しているホール&オーツを苦々しく思っていたわけです。「アッチ側」にはMTVがあって、他にもブランド品や、旅行や、合コンや、テニスや、ドライヴなんかがあったわけです。楽しそうですね。一方、僕が属していた「コッチ側」には、パンクロックや、安い酒や薬や、喧嘩や、オカマや、だらしない性交渉なんかがあったわけです。暗いですね。 でも、あの頃、僕は胸を張って「アッチ側」を拒絶していたわけなんですね。拒絶が激しかったあまり、実は「アッチ側」のことをよく知りもしないで、一方的に呪っていたわけです。そんな意識が、より「コッチ側」での僕に光を射してくれるような錯覚。馬鹿ですね。実情を知っていたら、間違いなく合コンを選びましたね。 などと、在り得ない過去のやり直し宣言をしている僕は大人になったわけですが、本作を聴くと、やっぱり「アッチ側」の音って眠いかも、などと嘆息。当時、「モータウン系」なんて呼ばれていた『マンイーター』のリズム。モータウン音源のわずかな一面の上っ面をなぞっただけの平坦なビート。こいつのせいで名曲になり損ねたね。「アッチ側」って軽薄〜。 しかし、「コッチ側」のパンクバンドがリハで「モータウンリズムで!」なんつって、♪ズッタンズッタ♪を演っていた事実も僕は知っている。「コッチ側」も軽薄ね!
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〜グレイテストな
ベスト 4〜
★★★(2003.10.20)
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『Best Selection/ベイ・シティ・ローラーズ』 突然変異。 ポカッとシーンに登場して、大暴れして、前後に脈絡を残さずに消滅。あぁ、言葉にしてみたら、すんげぇロックンロールっぽいかも。潔くてさぁ。 グラム以降&パンク以前の大英帝国。レッド・ツェッペリンは存命。クイーンの台頭。ボウイーの変容。バッド・カンパニーとか…。ともかく、そんな時代に登場したBCR。50年代のクリーンなポップ音楽のムードを強調。誰が演奏しているのかは別として、安定した演奏の印象もクリーンでポップ。軽やかなリズムが抜群。誰が演奏しているのかは別として、ね。甘いボーカルに絡みつくハーモニーコーラスはビーチボーイズなんかも思い出す。どの楽曲も、コーラスの比重は高い。つまり、BCRの音楽はかなり高純度のポップスだ。 シャッフルのビートに厚いコーラスが重なるとスイートなんかのグラムロックを思い出す。『サタディ・ナイト』の掛け声はゲイリー・グリッターっぽいしね。そう言えば、リズム主体のシンプルなアンサンブルや、単音で単純なギターソロはパンクロックっぽいかも。そか、いかにも大英帝国が好むポップ音楽ではあったんだな。 「レスリー!」「ウッディ〜〜!」といった黄色い悲鳴の中から、BCRの音楽性を正しく聴き分けることは難しかった。悲鳴が消え去って初めて僕には純粋に音楽が聴こえてきた。初期のビートルズもそういった状況の中にいたのかも知れないね。アイドルグループのことは、なんとなく馬鹿にしてみたいっつう俗物根性は悲鳴にばかり目くじらを立てる。俗物野郎だった僕はBCRを小馬鹿にしていたけれども、ラジオから流れてきた『ラブ・ミー・ライク・アイ・ラブ・ユー』(『プリーズ・プリーズ・ミー』と内容が似ているね!)のフレッシュな魅力にウットリした記憶だけは忘れられない。 あの頃、淡い恋の相手だったガールフレンドがデートにタータンチェックのスカートを履いて来た時に僕は舌打ちしたっけな。泣きそうに後悔している。
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〜名盤山脈 13〜

★★☆(2003.10.20)
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『地獄のロックファイヤー/キッス』 70年代のメイク時代しか知らないのだけど、普通は『地獄の軍団』なんだろ? 特に僕の場合、ボブ・エツリンのファンだったわけだし。しかし、敢えて、本作を推すわけで。 なんだか、陰口が聞こえてきますね。 「がははは、『ハード・ラック・ウーマン』が好きなんだろ?
わかりやすっ!」 いやいや、僕は『ベス』の方が好きだな。それに、KISSのシングルで一等好きなのは『地獄の叫び(Shout
It Out Loud)』だもんね。れれ? それじゃ、ますます『地獄の軍団』じゃん! ところで、自分が上機嫌の時に、決まって鼻歌として登場する楽曲ってない?
その時のウキウキした気分をさしあたって何かに転換してみる上で最適な器になる楽曲、と言うか…。そんな場合の僕のレパートリーは恐ろしく少なく、いつだって同じ楽曲を使い回してしまっている。新曲を探して補填する努力を怠っているのは恥かしい限り(あ、言ってみただけ…)。 そして、そんな「幸福鼻歌ソング」が本作に収録されているわけです。それは、ずばり『いかすぜあの娘(I
Want You)』なんですねぇ。しかも、正確に言えば、冒頭のアコースティックギター2本(1本は12弦?)だけをバックに歌われるバラードの箇所のみ。約13秒。ドラムスやベースや電気ギターに切り替わって、ヘビーなサウンドになったパートは全く鼻歌の対象ではない。ないっつうか、鼻歌になりにくいやねぇ。 どのみち、14秒目にムードが一転する箇所は見事なくらいに、世界観が断絶している。これ、テープを切り張りしましたね。生ギターの余韻が完全に切れている。そのせいか、僕にとって、『いかすぜあの娘』のアコースティック部は独立した楽曲ってな意識が強い。 本作で言えば『愛の絶叫』『情炎!ミスター・スピード』『悪夢の出来事』のようなシンプルで、ポップで、適度にヘビーで、野太いコーラスが絡むKISS楽曲は魅力的だ。しかし、僕の幸福を転換する為には、もっとせつなさのスパイスが必要なのね。 |
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〜名盤を観てよ!〜

★★★★(2003.11.03)
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『4人もアイドル〜All You Need Is
Cash〜/ザ・ラトルズ』 ビートルズの歴史は素敵な冒険物語だ。 例えば『あしたのジョー』の展開が巧妙に因果を紡いでいるように、因果によって加速しながら進行していく。そして、そのプロセスも結末についてもあなたはよ〜く知っている。 ビートルズの音楽・映像・歴史は僕にとって至福の宝だ。そして、それを共有できる他者の存在も宝だ。 共有とは、僕もあなたもビートルズのことを知っていること。お互いが自分の友人としてビートルズを見つめていること。マハリシの話題が出ただけで、速やかにブライアンの死→アップル社設立、などと思考が勝手に展開しちゃうなんてのがベストだ。ベストと言えば、ピート・ベスト。ジョージ・マーティンの助言で解雇。・・・なんつって、ダラダラと勝手に展開。こんな会話をしていたら、一晩じゃ足りない。 ラトルズの物語には僕達が夢中になって語っている話題が凝縮して詰め込まれている。ビートルズの情報が頭の中になければ、この可笑しさは伝わりにくいのかも知れない。しかし、僕にとって、ラトルズ(っつうか、ニール・イネスとエリック・アイドル)は大親友だね。「ビートルズ仲間」の中で最高峰、ちゅうか。 ビートルズをダイレクトに語るわけではない。音楽をコピーするわけでもない。コレクションや知識を自慢するわけでもない。距離を置いて、対象化してみせるわけだ。ちょっと茶化してトレースした物語や音楽を作品化しちまったわけだ。このクールな距離感は、実を言って、非常にビートルズ的だと思う。
設立会社の崩壊を描くシーンにジョージ・ハリソンがレポーター役で登場する。自身の恥部でさえある歴史的事実の場面にサラッと登場するジョージの姿勢もまたクールで素敵だ。真面目な顔でラトルズを語るミック・ジャガーやポール・サイモンのインタビューも良い。 皆、ビートルズが好きでたまらないんだ。だから、真剣にパロディし、それを共有するんだ。 『チーズ&オニオン』のアニメと楽曲の熱意は半端じゃない。 |
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〜謡曲を聴く66〜
★★★☆(2003.11.03)
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『VISTORS/佐野元春』 84年発表。 あの頃、何度も繰り返して聴いたアルバム。僕にとって、佐野元春のアルバム中唯一ハマったのが本作。正確に言えば、このアルバム以外はフルに聴いたことがないや。 NYに単身乗り込んで、そこでの生活にインスパイアされた楽曲を、地元で出会ったミュージシャンと供に制作。絶頂期に日本を離れて、ファンや企業から期待されるヒット作の続編制作を拒絶した佐野元春に潔さを感じるわけなのだけれど、僕の場合、彼の熱烈なファンじゃないので、そんな舞台裏の事情は無用。この作品を聴けばOK。無邪気に環境と時代を謳歌している佐野元春の音楽は希望と勇気に満ち溢れていたんだな。歌い手のワクワクした気分が心まで染み入る。20年近いブランクで聴き直したのだけれど、今も僕は軽く高揚している。前だけを見つめている精神にアジられるのは快感。その辺の心情は「♪昔のピンナップはみんな/壁からはがして捨ててしまった♪」(『ニューエイジ』)と歌われている。 佐野がNYで出会ったヒップホップは強烈な印象だったのだろう、ラップ風の楽曲を無邪気に、そして得意気に披露。今の感覚では、どこがラップなんだ?ってな出来栄えなのだけれど、84年の僕にとって強烈な印象ではあった。サウンドの構成やPVの演出も含め、かなりラジカルな印象を受けたっけ。サウンド構成は今の感覚ではいかにも80年代的なエレクトリックファンクなんだけどね。スクリッティ・ポリッティみたいな、さ。っつうか、スクリッティをパクってんだろ! パクリと言えば、どの楽曲にもジョン・レノンを思わせるメロディやアレンジが露骨に登場することに驚いた。ソロ期がその対象。あの頃の僕は、何故そのことに気付かなかったのだろう?
精神効用剤として本作を活用していたから、音楽そのものに意識が働かなかった?
NYで失った友人への想いが反映されていると当時のインタビューで読んだけれど、NYで失われた「世界人類の友人(=ジョン)」にも挨拶したのかな? |
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〜Watch that
80's〜
★★★(2003.11.10)
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『WestWay to The World/ザ・クラッシュ』 “元CLASH”の証言と、当時の映像で構成されるドキュメント。 忘れていたこと、封印していたことの数々が鮮烈に蘇った。CLASHが登りつめ、混迷する状況を僕達はオンタイムで逐次知っていた。ジョー・ストラマーの失踪。復帰後のモヒカン頭。トッパー・ヒードンの解雇。ミック・ジョーンズとの決裂。 ・・・ 音楽誌のCLASH報道は欠かさずに読んでいたし、記事に添えられた写真は大事に保管していた。主にペニー・スミス撮影のライヴ写真(特にポール・シムノン)を見つめているだけで幸福だった。 そんなことも僕の中ではとっくに風化。パンクの渦中にいた少年が大人になったら物分りよく社会に溶け込む、なんつう青臭い話とも違う。80年代初頭にしてパンクはCLASHによって息の根を止められたからだよ。NY滞在中にヒップホップに色めき立ったCLASHはパンクの枠を大幅に拡大し、逸脱。挙句に自滅。そのことによって、僕のパンクは終焉した。 本作はその頃の状況を証言。終焉間際でストラマーがエキセントリックなまでに潔癖な精神性をもってCLASHやパンクロックと刺し違える様が明らかになる。本音を言わせてもらえば、当時の僕がその際のストラマーの決意や行動を支持したわけではなかった。僕達は一方的にCLASHもパンクも剥奪されたまま、次の一歩をタフに踏み出さなければならなかった。ストラマーは「テクノ世代の終焉」と語る。 もはや再結成は永遠に不可能。堂々たる勝ち逃げ(負け逃げ、かな…?)。パンクロックを葬った歴史上の英雄、そして戦犯。どうやら、“元CLASH”は自身のしでかしたことを自覚している模様。僕は少し救われた。 ビートルズの奇天烈な動向に振り回されたという幸福な世代がいる。それは羨ましいことなのだけれど、僕がCLASHとともに生きたことは誇らしい。僕は、世代論に寄りかかって自慢をしているつもりはない。あなたの世代にはあなたの世代のCLASHがいるだろ? だって、あなたにも17歳の時はあったんだろ? “あなたのCLASH”を僕に誇ってください。 (1・2・3・4) |
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〜Drive to
80's Vol.42〜

★★★☆(2003.11.10)
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『メニンブラック/ザ・ストラングラーズ(6)』 日本での異常人気に幕を下ろす決定打。そして、ストラングラーズが音楽の発し手として存続して行くことを高らかに宣言した決定打。 冒頭『Waltzinblack』の冷え冷えとした感触が最終曲まで強い意志で貫かれる。安直な8ビートは無い。意固地にドラムスのフレーズを解体。録音時の空気感みたいなものに頼った勢いだけのパンク曲はない。キーボードの比率が高くダビングも明らかに多い。音空間を緻密に設計したミックスダウン。左右のバランスに集中して聴くと面白い仕掛けが多い。 ムードこそ冷え冷えとしているのだけれど、全体の肌触りは陽性。『Waiting
For The Meninblack』は、まるでコンピュータドリームに誘き出されて墓場から浮かれ出たジム・モリソンの夢遊病ダンスみたいだ。テクノポップ的な明るさ。明るさったって、それは絶望や不安と背中合わせのものであって、テクノポップが持つ哀愁とはそーいう類のものだ。シンセドラムスやアナログシンセのプログラミングがあるからテクノポップを引き合いに出すわけじゃない。本作における(例えば)ギターの単音フレーズをシンセでプログラミングしてみたまえよ。アナログ系の音色を選んで。80年代初頭ニューウェーヴな気分が簡単に創出。 ロンドンパンクはレゲエと共に爆発したわけなのだけれど、同時多発的に勃発したテクノポップもまた時代の空気を彩り、70年代的なロックを葬る上での重要プレイヤーだったわけだ。パンクが最初(それは、つまり最後)の爆発を終えた時点の音源をつぶさに聴けば、1つの空気を浮き彫りにすることが出来るだろう。それがニューウェーヴさ。そして、ニューウェーヴの核心にいるのが本作。音楽的に言えば、シンセサイザー(的な音感覚)のキャラクターをリードボーカルと並列に活かした手法であるとも言えるし、精神的にはそれが新時代への希望&活力だったと言うことだ。 本作のストラングラーズがパワー不足だ、などとぬかした馬鹿は“真の力の意味”を再考すべきだぜ。 関連(1・2・3・4・5・6・7・8) |
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〜Drive to 80's Vol.43〜

★★★★(2003.11.17)
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『SKIN DEEP/フリクション』 発売当時、難解な印象だった。ありがちな言い回しだけれども、僕もフリクションを「東京パンクの雄」と捉えていたので、メンバーチェンジは致命的なものだと受け止めた。4人組のフリクションの音は切れ味鋭いパンクのテイストが後退し、理屈っぽい印象を受けた。第一、ツネマツのいないフリクションなんか聴けるかってのっ!(ラピス時代は許容出来たんだよね。これもありがち…) で、21年目に初めて心して聴いたわけなんすが、基本構造はファーストと変わっていないんだね。ツネマツ不在により音の隙間が増え、その隙間を最大限に活かす為の知的かつフレキシブルなアレンジがなされている、と。フレキシブルなんて言うとカッコいいけど、テキトーな前衛。そうそう、あの頃流行っていた「テキトーな前衛」というのが僕は嫌いだったんだ。フリクションやEP−4を幼稚に解釈して、未熟な演奏力と、安易な音楽コンセプトで芸術家きどりな輩。ループするベースとドラムに、ギターやサックス等のリード楽器(って言いたくないけど)が切り込む。フレーズは出鱈目。リードが叫び声の場合もあるけど、共通しているのはリード奏者は音も外観も痙攣していること。ステージでガクガクしちゃってさ。無理しちゃって…。 で、まあ、レックもたまにステージで痙攣してたわけなんだけど、本作を「テキトーな前衛」とは思わない。その根拠は第一にドラムスのフレーズが知的に緻密に組み立てられていること(個人的にはチコヒゲのタイム感は揺れすぎだと思うけど)。絡むベースラインも技能が高い。第二に念入りなミックスダウンが施されていること。ドラムス&ベースの力強い基調とボーカルの強い個性が強調されて核を形成し、前衛的なムードは添え物になっている。 核の強さはダイナマイト級。その意味において、本作とファーストの基本構造は同じ。ファーストにもファンクの要素はあったしね。 それにしてもレックとツネマツの歌って似てるよな。 関連(EDPS1・EDPS2) |
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〜謡曲を聴く67〜

★★★☆(2003.11.17)
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『特選集・北を恋うる歌/新沼謙治』 とある地方を女同士の二人旅。美しい山景色を観て、一方が自身の出身地の風景を例えて賞賛したと言う。他方はそのエピソードに対して「評価軸を自分の出身地にしか求められない地方出身者を私は可哀想だと思う」と。 可哀想などと思い上がった同情を示す東京出身者はいけ好かない。また、何かと言えば御国自慢ばかりする地方出身者もいけ好かない。出自がどう、なんつう話は俺を酔わせんよ。今のアンタを見て、判断させてもらうわ。 差し当たり、その話をしてくれた女性に対しては「評価軸を絶対的に持った人間を可哀想とは笑止。軸がブレてるアンタも可哀想だ」と返しておいた。 さて、演歌と言えば地方の風景や世俗を歌い込んだものが多く、また、東京での挫折感を歌ったものも少なくない。地方の風景は美しく、東京での生活は乾いた印象で描かれたりして。東京での儘ならぬ生活に不貞腐れた田舎者の愚痴。アンタには帰る場所があるだろ?とまぁ、東京者は切り返すわけですね。本当に帰る場所があるのかな?
帰る場所が在るならば、そこまで哀しくはないんじゃなかろか? 人が必死で耐え忍びながら一人で生きていく決意表明みたいなものが演歌の背後には在るんじゃないかしら?
新沼謙治の歌にはそんな決意を感じる。 「酒つぐ女の北国なまりに/男のこころが風になる」「くわえ煙草の赤い火が/指ではじけて蛍になった」 故郷と都会生活の間に横たわる大海原を漂いながら、懸命に船を漕ぐ人間の軸足が現在の生活に在り、しかし、不意に訪れる刹那の切なさを抱きしめているわけですね。そんな瞬間の想いを連ねるのが演歌のひとつの特性なのであって、また、人間がそんな瞬間に襲われた時の救いとなるものもまた演歌なのでしょう。不況、失業、暗い世相。増加する自殺を防止する最良の効果剤は演歌なのかも知れない。暗い世相や不況はいつの世にも在ったけれども、現在に無いものは演歌だ。 「モノがあふれて心が痩せて/渋谷の街は演歌が居づらくなるばかり」(『渋谷ものがたり』) |