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メレンゲ今週のCDご紹介47

ザ・ビートルズ(5)、ビートルズ(6)、ブーガルー・ア・ゴーゴー、ザ・フォーク・クルセイダース、ジョン・レノン(2)、
グループ(X)、榎本健一(3)、ザ・ストラングラーズ(7)、郷ひろみ、沢田研二

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)





★★★(2003.11.24)

『レット・イット・ビー...ネイキッド/ザ・ビートルズ』 つくづく、鬼っ子。 ビートルズの歴史に実質的なとどめを刺した「ゲットバック・セッション」。棚上げになった録音物をデコレイトして仕上げたら物言いがつき、今、こうしてまた棚から降ろしてお色直し。奇しくも前任のプロデューサー逮捕の2003年。解散後のビートルズの事件は年末年始に集中する。 確かに以前のモノとは違う。別テイクを引っ張り出したという差異や、ミックス(っつか、仕上げ)違い。音は抜群に良い。しかし、どちらがどうとか判定すべきものとは思いがたい。第一、それ程真剣に論じたいセッションでもなし…。 そんなわけで最大の争点となった『The Long And Winding Road』にポイントを絞って比較してみる。 無いよ、無いっ! オーケストラもコーラスも無いっ! どうだいポール、満足かい? まぁ、確かにオーケストラが覆っていたモノ達が生き生きと前に出てきている。頑張っちゃったピアノの細かいフレーズがハッキリと聴き取れる。この成果を潰された演奏者(ポールだ!)は憤るかも。ほぉ、ギターが鳴ってらぁ。デリケートなハイハットワークが心地よい(本作の一番の功罪はリンゴの有能ぶりを新たに証明したことだと思うな)。っつか、ハイハットの音自体が大きく変わってますな。 聴き慣れたバージョンで存在を強く主張していたオーケストラのオブリガートが抜け落ちた箇所に違和感は強く感じるけれども、最小編成のコンボが一丸となって作り出す和声はなるほど完成している「ドライヴ感」といった着眼点から考えたら、こちらのバージョンに軍配が上がるかも。しかし、個人的な趣味を言ってしまえば、オーケストラ版も最小コンボ版も決め手となるフレーズの魅力に欠けていると思うな。特に新バージョンはピアノへの依存が高過ぎる割には決定打となるフレーズが無く、最後まで迫力を作り出せないでいると僕は感じる。ギターの見せ場が無いとか、ベースのラインが手堅過ぎるといった問題も改めて感じた。ポールがベースをダビングすべきではなかったか。

〜名盤山脈 14〜



★★★(2003.11.24)

 

『レット・イット・ビー/ザ・ビートルズ』 さて、一方、頭にも耳にもこびりついた『The Long And Winding Road』の旧バージョン(いや、「オリジナル・バージョン」と呼ぶべきかな?)。 オーケストラの細部までジックリと聴いてみた。そう言えば、この楽曲をこんなに真剣に聴いたのは初めてかも知れない。フィル・スペクターのスコアには、ジョージ・マーティンのような色気が圧倒的に不足。右チャンネルから聴こえる管楽器(トランペット?)が音自体も印象的だと思うのだけれど、メロディに対してカウンターになったりする瞬間が肝。ストリングスのラインは和声構成上の経過音をフレーズ化したような箇所が多く、印象には残りにくい。サビで上昇するフレーズと間奏以外のストリングスは甘ったるい。っつか、音が厚すぎて「弦の魅力」を相殺してるよな全体のムードしか感じられない。大所帯のオーケストラをダブルで録音してダビングしたか? 「音の壁」ってやつね。 しかし、言い切れるのは、録音されたベースの活かし方という点で旧バージョンのアレンジは適切ってこと。バスドラムも適切に聴こえるしね。問題はスポイルされたピアノか…。 録音に参加する演奏家には各自各様のエゴが発生するのは当然なのであって、誰もが競って自分が演奏したパートのボリュームを上げたがる。ビートルズは(リリース量と、録音時間において)格別の待遇で録音を行い、ジョージ・マーティンという優秀なプロデューサーに指揮を委ねていた。それは、ある程度の「やりたい放題」が予め保証されていた、というわけだ。ミック・ジャガーさえもが「羨ましかった」と発言している。であるにも係わらず、ビートルズの演奏家としてのエゴは強烈で、「俺が俺が」と自分のトラックのボリュームに固執したわけだ(=『I Me Mine』)。そのエゴは歴史に拭い難いシミを残し、新バージョンを発表させてしまった。 戸惑いながらも、僕達が新バージョンを受け入れる理由は、その対象が『Let It Be』どまりだったってことかな。 (・5・6・7)

〜ワールドサイド
を歩け!! 25〜


★★★(2003.12.01)

 

『BOOGALOO A GO-GO/V.A.』 ブーガルー。1964〜69年あたりの楽曲をコンパイル。ブーガルーの定義はよくわかんないや。っつか、南米ポップ史にボコボコと登場するビートの名称は覚えられないし、調べてもどうせすぐに忘れる。 90年代の「お洒落期」に珍重されたに違いない本作。低音を効かせた大音量でフロアに流れたらご機嫌な楽曲が18曲。色男度が高い。高いなんてもんじゃない。全曲がプレイボーイから女の子への口説き音楽だ。それも、目的はずばりSEX。「ほらほら、もう勃っちゃってんの! 見て見て! 先からにじみ出てるのが見えるでしょ」 ま、普通、そーいった下卑た言葉に対して女の子は不快感を示すわけです。ニラミつけたり、昔の映画だとビンタだね。完璧にシカトってのもあるだろう。それは厳しい! しかし、ブーガルーの発し手達の守備は華麗。手際が良いっつうか。 下品な挨拶に女の子は微笑むんだな。「どれどれ?」なんつって、先っぽからにじみ出ているモノを覗き込んで、「これ、私の責任なのかしら?」なんつって目を見つめてくるわけだ。 いや、まぁ、そんな場面を目撃したわけじゃないし、そんな事実が在ったかどうかも僕は知らないんだけどさ。 理想的なプレイボーイ像を想像してみよう。狡猾な手口は使わない。だから、女の子を独り占めにしているくせに同性からも慕われている。回りくどい口も聞かない。理屈でモテた奴ぁいねぇ。気の利いた話術で場の空気を作る。ちょい派手だけど充分にオシャレ。基本は笑顔。彼ならではの「得意技」が最低ひとつはある。つまりは能力が高い。その能力は相手(もしくは周囲の人間)を楽しませたり、助けたりする為に行使される。 と、まぁ、そんな人間に僕はなりたい。本当は、小金を持っていて、気前が良いとかって要素も重要なのだろうけど、さしあたって人間性という意味で努力させていただきます。 プレイボーイが得意技を華麗に披露するブーガルー。女の子を口説く際のBGMには不向きかもな。

〜謡曲を聴く68〜

★★☆(2003.12.01)

『戦争と平和/ザ・フォーク・クルセダース』 謎の再結成。 …としか言い様が無い。オリジナルメンバーではないとは言え、全盛期の人気メンバーであった端田宣彦は参加していない。解散後の経緯を見ても北山修と加藤和彦だけが仲良しなんだろうけど、アルフィーを参加させることはないじゃんねぇ! TVでオンエアされた再結成ライブにも本作にも顕著なのはアコースティックギターの達者なアンサンブル。生ギターの達人が必要だったという事情は理解できるけれども、しかし…。 フォークルは2人のメインボーカリスト(そして作曲家)と、3人目の奇怪な表現者(そして作詞家)によって成立していた。音楽の無限のファクターを飲み込んで、表現に特殊な奥行きを与え、結果、単純なジャンル分けさえ出来ない次元にまで昇華した実績は、その3人のバランス(と言うか、綱の引き合い)によって実現したものなのだろう。だからこそ、フォークルは誰にも追随不能な音楽として封印されていた。 本作には緊張感を伴うバランス感覚や綱の引き合いは無い。おかげさまで、加藤和彦の世界とボーカルをたっぷりと聴くことが出きますぜ。実質的なソロアルバムじゃん。久々に聴く歌唱は、いつにも増して頼りない。久々にシーンに返り咲いた加藤和彦。本当にこんなことがしたかったんすかねぇ? まるで、それが義務だと言わんばかりに、一生懸命に悪ふざけしている姿が痛々しい。こっちが照れくさくなっちゃう。オフザケは端田のノリちゃんが担当でしょ。 なんて言ったらいいのか…、ユーモアのモチベーションが30年前とは全然違うような気がする。悪意の無いユーモアが、好々爺となった加藤和彦の薄っぺらい善意のように空回りする。 無駄に数が多い収録曲も、思いついたアイディアは全部入れちゃえ、ってな印象。 加藤和彦という人は、フレッシュな思いつきに強烈なパッションを感じて音楽に昇華できる稀有な音楽家であると思うのだけれど、自身はその意味を総括できていないんじゃないかな? ってわけで、フォークルやミカ・バンドを検証しましょ。

〜名盤山脈 15〜



★★★★★(2003.12.09)

『ジョンの魂〜ジョン・レノン〜/プラスティック・オノ・バンド』 1980年12月2日。その日、僕は『ジョンの魂』をアナログディスクで購入した。忘れない。忘れようがない。 高円寺の中古レコード店。僕はジミー・クリフが欲しかったんだが、同行していた当時のガールフレンドに押し切られた。 その日から四畳半のアパートで、本作は毎日・毎晩プレイされ続けた。スピーカーが何十回も「母さん行かないでくれ」とか「僕はビートルズを信じない」と叫んだ。それらの言葉は僕を刺し、僕はその言葉にすがりつくように繰り返し繰り返し聴いた。まるで目の前に存在しているように歌い手の発した息遣いが暖かく耳に降りかかるようで僕は嬉しかった。そう、僕は嬉しかった。この歌を作り、歌った人間が地球のどこかで今生きていてくれる。その人がこの世で同時代を生きていてくれることが嬉しかった。 たっぷり一週間、僕は本作だけを聴き続けた。誰彼かまわず『ジョンの魂』がいかに素晴らしいアルバムであるかを夢中になって話した。 1980年12月9日。ボンヤリと穏やかな陽気に誘われてターンテーブルの『ジョンの魂』をはずし、別のレコード(X)をかける。ただ、ボンヤリと。一週間ぶりにターンテーブルが『ジョンの魂』から解放された。ただ、ボンヤリと。 あの頃の僕はテレビも電話も持たず、情報手段は唯一ラジオだった。いつものようにFMを聴く。ただ、ボンヤリと。いきなり、『イマジン』のサビ。あははは。どうやら、今日もジョン・レノン日和だ。今は僕にとってジョンを聴き続ける時なのかも知れない。新譜も買わなくっちゃ。先日リリースされたばかりの『ダブル・ファンタジー』。先行シングルの『スターティング・オーバー』はよくラジオで聴くけれども、実に力強い楽曲だ。僕達が80年代に向かう為のエネルギーとなる力強い楽曲。 その時、『イマジン』にアナウンスが被さった。「ただいまおかけしている『イマジン』は、本日亡くなったジョン・レノンの…。」 僕はすぐさま自分の耳が間違っていたことを確認する手段だけを考え始めたけれども、ジョン・レノンは現実に死んでいた。


〜名盤山脈 16〜



---(2003.12.09)

『レコード(X)/グループ(X)』 2003年12月9日。今日は僕が『ジョンの魂』を購入した日から数えて23年と一週間目。 23年前のこの日、祈りながら聞いたラジオのニュースが僕にジョン・レノンの死を告げた。 『ジョンの魂』購入からぴったり一週間。その一週間を僕は、ジョン・レノンが生きていてくれることに感謝して幸福に思いながら過ごしていた。まるで、ジョンの最期に深刻に立ち会う為の儀式のように与えられた一週間。その一週間が現実をより残酷に悲しく感じさせたことも事実だけれども、今となってはその一週間を過ごせたことに僕は感謝している。 僕から『ジョンの魂』の素晴らしさをしつこく聞かされていた友人は、その日、僕からの電話が無いことを祈ってくれていた。彼は自分の口で僕に向かってジョン・レノンが死んだことを告げる事態を避けたかった。 1980年12月9日。結局、ターンテーブルには『ジョンの魂』が戻り、一晩中プレイされた。もう完全に覚えてしまっていた歌詞が、ついさっきまでの一週間とは別の意味で聴こえ始める。どういったわけか『リメンバー』のところで僕は一番泣けた。この日以来、僕は『リメンバー』を聴くたびに涙がこみ上げてしまう。『ジョンの魂』を購入して一週間聴き続け、別のレコード(X)に差し替えた日にジョン・レノンが死んだ。僕は別のレコード(X)に差し替えたことに罪を感じ、また、そのレコード(X)を激しく憎悪した。あれから23年と一週間、僕はそのレコード(X)を一回も聴いていない。たぶん、生涯聴くことはない。いや、そのレコード(X)にもそのレコード(X)を制作したグループ(X)にも罪は無いのだけれど…。 ジョン・レノンの死に対して、ジョン・ライドンは「世界は何も変わらんよ」とコメントした。僕に変わったことがあるとしたら、そのレコード(X)を聴かなくなった。 言われの無い不名誉なので名は伏せますが、グループ(X)に関するヒントだけ。 1980年12月9日に「元ビートルズ」は3人が残ったわけですが、そのグループ(X)も3人が残っていました…。 全てが予定されていたプログラムのようでやるせない。 関連(イマジン

〜歌謡曲を観る 2〜



★★★★(2003.12.22)

『歌うエノケン捕物帖 & エノケン・笠置のお染久松/榎本健一』 榎本健一主演の昭和23年、24年の喜劇映画。江戸の町内を舞台にした時代劇ミュージカル。極上の娯楽作品。音楽を服部良一が担当し、服部音楽の表現者としては最高峰である笠置シズ子と藤山一郎が共演、その喉を聴かせてくれる。 な〜んて情報は、これらの映画を何も語ってはいない。 江戸情緒を残す古典曲をジャズ風味にアレンジしたり、『ウェディングマーチ』のメロディに『高砂や』の歌詞を乗せてしまう等の天晴れな音楽的ミクスチャーは、レコード制作とはまた違った服部の茶目っ気が火を噴いた成果だ。音楽にユーモアを託す手腕において天才的であり、悪戯者『東京ブギウギ』の替え歌の楽しさったらありゃしない。 しかし、それも本作の素晴らしさの一面に過ぎない。 昭和23〜4年と言えば、エノケンが峠を下り始めている時代であり、浅草文化が夕陽に染まっている時代。戦後日本が夜明けを迎え、江戸文化を始めとする日本的伝統文化との距離感や新しい文化的方向性を模索し始めた時代だ。その際に日本人が行った模索は今日に至る日本人の在り方の確実な礎になったのだと僕は思う。ま、そこには正しいことも間違ったこともあるのだと思う。ここで一発、現在の日本文化に対する諦観を語り御託を並べたりなんかするのも一興かも知れない。 しかし、そうじゃないんだな。諦観なんぞ無用。今を信じられる映画。盛りを過ぎたエノケンが、エネルギーを最後の一滴まで絞りつくさんと懸命に走っているんだもん。エノケンなりに日本の夜明けに尽くしている、と言うのかな…。そんなエネルギーに僕の魂を共鳴させる為の映画なんだな。 勿論、エノケンだけでなく、笠置シズ子や藤山一郎、あきれたぼういずのエネルギーも充満し、爆発している。服部良一の熱意にはこちらの身体が焼き尽くされそうだ。モニタを観ながら大袈裟に笑っていないと僕は倒れてしまいそうだ。 まるで、エノケンは2003年の不況や暗い世相を予知して、この映画を僕等に残してくれたようでならない。 必見! 魂で見たまえ! (関連

〜Drive to 80's Vol.44〜

★★★☆(2003.12.22)

『ラ・フォリー(狂人館)/ザ・ストラングラーズ(7)』 5週間に1枚づつストラングラーズのアルバムを聴き始めて7回目。各々のアルバムが新作だった時期には頻繁に聴いていたのだけれど、今では何かしら理由が無いと聴かなくなってしまった。 僕も含めて、現在、ストラングラーズの評価が低いものだから、僕なりに真価を訴えたくて始めた企画ではある。であるにも関わらず、僕自身が義務のように漫然と聴いてしまっていた。 しかし、本作にたどり着いて、僕は初期の動機を思い出しましたね。えぇ、明確に。 例えば、本作収録の一曲目の『ノン・ストップ』。これは、あの頃の僕にとって理想そのものの楽曲だった。軽快で可愛らしいオルガンのフレーズに導かれるメロディは連続性よりも断続的な瞬発力に富み、8ビートも軽やか。理想的な80年代(=ニューウェーヴ)ソング。おっと、言ってしまってから、自分でも驚いているのだけれど、僕、今「可愛らしい」って言ったよね?そうかぁ、ストラングラーズの楽曲に対して「可愛らしい」が賛辞なのかぁ。 そうなんです。ニューウェーブにとって「可愛い」は重要なファクター。テクノ世代とは、自己の内なる幼児性を確認する行為の総称でもあったと僕は思うわけです。 ストラングラーズ流の不細工なファンクチューンもあるし、テクノ世代を代表するようなロマンティックなヨーロッパ志向の楽曲もある。歴史的に振り返ってみれば、本作は80年代ニューウェーヴの在り様を提案したカタログサンプルのようでさえある。本作がその後のニューウェーヴ音楽のテンプレートとなった、なんて言ったら贔屓が過ぎるかな? そう思えば、「トリビュート・ブーム」の時に80年代リスペクトをテーマとしたストラングラーズのトリビュート盤が制作されなかったことがむしろ不思議だ。多大な恩恵を与えてくれたグループだったわけでさぁ。感謝すべき人間は多いだろ? 少なくとも、僕は感謝していますね。 メロディやアレンジの詳細が僕の神経の深い所に染み込み僕を形成していると実感できる。 ありがとう。 関連(


〜歌謡曲を聴く69〜



★★★★(2003.12.29)
2003年年末スペシャル

『DANDYSM '72-'85/郷ひろみ』 さぁ、いよいよ、この日が来たっ! 『歌謡曲を聴く』というコーナーを始めて2年になるわけだけれども、始めた当初から郷ひろみを扱う日が待ち遠しかった。あまりにも待ち遠しかったので、何とはなしに先送りしてしまっていた。 デビューから『恋の弱味』まで(本作のDisc4〜3)の郷ひろみが好きだ。好きでたまらない。『恋の弱味』の次のシングルが『20歳の微熱』。つまり、『男の子女の子』から『恋の弱味』までが20歳以前のひろみ、ってわけだ。いや、調べてたわけでもないけれども、ひろみの実年齢なんか関係ない。楽曲が「20歳」と宣言したのだから、それ以前は「10代」として存在していたんだ。「10代」とは未成年という意味なのであって、選挙権も無いし、酒や煙草も御法度(『恋の弱味』では煙草を吸っているけどね…)。しかし、異性に対する想いは成人以上に大きい。大きい、ってぇかギザギザしているんだね。洗練も制御もされていなくってイビツなの。思春期、成長期、反抗期、発情期、それからアレコレ…。 気軽に呼びかけていた同世代の女の子は(『男の子女の子』)、切ないくらいに日々美しく成長して僕をドキドキさせる(『小さな体験』)。今や貴女は僕の偶像(『天使の詩』)、2人でいることが恐ろしくて距離を置いてしまう僕(『愛への出発』)。貴女の大胆さにリードされて初体験の予感に酔うのだけれど(『裸のビーナス』)、不安だけが増幅して甘えてみたくなっちゃう(『魅力のマーチ』)。でも、貴女の本当の心がわからない(『モナリザの秘密』)。念願の初体験が済んだら激しくのめりこみ、ちゃっかりと浮かれ気分(『花とみつばち』)。初体験を思い出すにつけ(『君は特別』)、貴女を独り占めしたくなる僕(『よろしく哀愁』)。僕の心がどこまでも暴走するのは(『悪い誘惑』)、貴女の虜になったから(『花のように、鳥のように』)。愛情と性欲の区別なんてつかないよ『誘われてフラメンコ』)。最初の恋もやがて終わり、身体も心も寂しくて仕方が無い『逢えるかも知れない』)。恋が無ければ生きていけない僕は恋の経験を無闇に重ねてしまう(『バイバイベイビー』)。気づけばいっぱしのプレイボーイとして、名うてのプレイガールとも渡り合っている僕(『恋の弱味』)。 と、まぁ見事に思春期から成人への成長期が綴られているわけです。「大人としての男」を獲得するプロセスと言うよりは、「少年としての男」が崩壊してゆくプロセスそんな揺れ動く少年の心を表現するシンガーとして、ひろみの声質と歌唱力は抜群。やり場の無いギザギザな心を見事に表現している。“少年期の郷ひろみ”は偉大な表現者として、もっともっと正当に評価されるべきだと僕は思う。

〜Drive to 80's Vol.45〜



★★★★(2003.12.29)
2003年年末
スペシャル

『シングルA面コレクション/沢田研二』 とうとうこの日が来てしまったっ! 沢田研二のベスト盤を前に呆然としてしまう。作家(特に作詞家)が与えるイメージによって変貌し続けたジュリーの“各々の季節”は今でも僕を撹乱する。 フレンチポップ路線のメロディに乗せ、不倫を思わせる年上の女性との情事に身を焦がしながら悶え続けるジュリーの軟弱な季節が大好きだ。そう、安井かずみが作詞を手がける季節。『危険なふたり』『魅せられた夜』『恋は邪魔もの』は、あの時代に、ジュリーでしか表現し得ない傑作。中でも『あなたへの愛』は僕にとって“生涯の名曲”だ。 季節は変わり、ジュリーは古い映画で描かれた男性(「だんせい」でなく「おとこせい」)をトレースしながら、ハードボイルド復権を目指す。阿久悠の季節。日本の70年代後半の時代が持つ季節性へのアンチテーゼのように、芝居がかった男性(しつこいようだが、「おとこせい」)。その演技に僕はリアリティを感じていなかったっけなぁ。楽曲の質とは別の次元で嘘臭い印象を持っていた。しかし、この季節をジュリーは突進し、「沢田研二の季節」として歴史に刻み、以降の展開でリスナーを撹乱させる。 80年代の到来。 そう、閉塞した世界に対し、パンクやレゲエやニューウェーヴが維新を起こさんと電飾仕掛けの黒船を送って来た季節。ジュリーにとっても、自身のキャラクター設定なんぞに固執してはいられない状況が到来した。以下、ジュリーは時代との距離感を繊細に調整しながら、ニューウェーヴの波の中で自己を崩壊させていく。うむ、デヴィッド・ボウイーの軌跡と似ていなくもない、ね。 『TOKIO』は、日本のポップ音楽市場が初めて経験したニューウェーヴ歌謡の“成功作”だ。大衆市場のスーパースターが大ヒットさせたニューウェーヴ歌謡。パンク派の偏狂リスナーに向けてのリリースではなく、汎用性を持ったヒット楽曲(その論法においてYMOのブレイクとは意味が異なる)。あの時、日本人はパンクとテクノポップの毒性を体内に受け入れた。ベースバランスの大きな歌謡曲を、シンセドラムと生ギターが不思議なアンサンブルを形成する歌謡曲を。 僕は初めて『TOKIO』を聴いた時に思わず「ざまあみろっ」と声をあげた。 振り返って見たら、ジュリーはずーっと東京(と言うか「日本の都市」)を風景として歌ってきたような気がする。『TOKIO』は「日本の都市・東京」を、タフでモダンでドライでウェットな「国際都市TOKIO」に再生させた名曲。YMOやパンタと根底で共鳴する。黒船による文明開化は一瞬であろうと、達成されたのだ。 僕はいつも、この言葉に震えて涙が出そうになる。「TOKIO、悲しい男が吠える街」。 タフでウェット。それが僕のTOKIO。

【メレンゲでGo!! HOME】  『メレンゲ今週のCD』

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