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メレンゲ今週のCDご紹介48

SUPERCAR、パノラマ迎賓館、菊水丸 ミーツ ブレイブ・コンボ、
スージー・クアトロ、SWOOP、井上堯之バンド、SCHLONG、

ザ・ストラングラーズ(8)光の雨シーナ&ザ・ロケッツ

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)





★★★★(2004.01.05)

『BGM/スーパーカー』 あけましておめでとうございます。2004年もよろしくお願いします。 ところで、「あけまして」って何だっ!? 「年があけた」ってことなのよね? ね、ね? この場合の「あけた」は「明けた」なのであって、「夜があけた」ってな用法と同じわけなのだが。 「あけまして」には目の前がガーッと開けていくイメージがあるんだな、僕なんかの場合。そそ、「開けまして(≠明けまして)」の印象! 初日の出をイメージしたイラストや、熊手等の縁起物にはガーッと開いている印象ってあるでしょ? たぶん、あれが「開けまして」を喚起しているのだろう、どうせ。 さて、2004年の幕明け(あれ? 「幕開け」? どっち?)を飾る第一弾。 シンセサイザーによる冒頭のベース音を聴いた瞬間に「あけたっ!」と感じましたね、僕は。 その場合の「あけた」は、そうねぇ、天岩戸が開いて陽が差し込むような目映さ、と言うのか。光の洪水がドドドッと降りかかってくるような印象。圧倒的で、幸福感に満ちている。ヘッドフォンで聴いていると、僕の頭部の一点(例えて言うなら、チャクラ)に光が流れ込んで来るのだけれど、僕の意識は外に向かって扇状(熊手の広がり方のように!)に広がって放出されていく感覚を覚えた。注入された黄金のエネルギーに対して、等価のエネルギーを自己の体内から外に放出することは、悪い気分ではない。エネルギーや楽しみを外部に要求するだけの生き方なんて、もはや許されてはいないのだ。僕は、そして、日本人は、そして、人類は「与えられる権利」以上に「与える義務」を自覚しなければならないのだ。2004年はそんな年として明けたんさ。 何度も聴き進むうちに、このディスクから注ぎ込まれた光のエネルギーが、僕の心臓のビートとシンクロしているような感覚を味わった。 年が明け、めでたい季節に最上の至福となる音楽。 楽曲が、アレンジが、ミキシングが、全て最上。砂原良徳、あいかわらず有意義な仕事をしている。



★★★☆(2004.01.05)

 

『パノラマ迎賓館/パノラマ迎賓館』 帯に記されたコピーが「合言葉はニューウェーヴ」。『テクノ戦争』という楽曲の中では「テクノポップ」という言葉を連呼する。ジャケ写やビジュアルはクラフトワーク。これらの情報からは80年代初頭のテクノポップに回帰しようとしているバンドを想像できるかも知れない。 サウンドをじっくり聴いてみる。生楽器が全く入っていない純然たるピコピコ音楽。しかしビンテージシンセに対する思い入れは皆無。近代テクノロジーによる完全制御音楽。それはつまり、80年代初頭のテクノポップとは別物ということだ。 クオンタイズは見事にジャスト。創造された揺れによるノリなんざ、信じていないのだろう。つまり、ガチガチに打ち込みだらけのピコピコなバックトラックは、90年代のテクノ音楽のようには機能させられていない。まるで、パノラマ迎賓館は「テクノ手法による完結」を拒否しているかのようだ。 収録された8曲の全てが「歌モノ」(唯一のインスト楽曲でさえ主旋律が放棄されていない)。オーソドックスとさえ言える配慮でメロディを聴かせる楽曲構造になっている。特にサビのメロディからは昨今のJ−POP的な饒舌さを排除し、繰り返しをシンプルに多用していることがわかる。それは、記号としてのメロディや言葉の連なりを強く自覚しているということだ。サビで楽曲タイトルが連呼されるケースが多いことからもそれは理解できるだろう。ミキシングの要点も明らかにボーカルトラックだ。 20余年を経過し、総括の時を待ち続けている80年代初頭のテクノポップに総括と新解釈を与える使命を担っているかのような音楽スタイル。それは言葉で言ってしまえば、ポリシックスと類似した志ではあると思うのだけれど、着地点がポリシックスとは全く違うところが面白い。「80年代初頭のテクノポップ」という十字架を背負うことで21世紀に自己証明することを選んだバンド。 舌っ足らずなボーカルが歌詞とは全く別の次元で感情を排除している様がプラスチック! 公式サイト

〜ワールドサイド
を歩け!! 26〜


★★☆(2004.01.12)

 

『音頭は地球を救う/菊水丸 ミーツ ブレイヴ・コンボ』 1993年のリリース。そー言えば、そんな情報を読んだような記憶があるような無いような。ま、どちらにせよ、僕は2004年に聴いた。古めかしくて未練がましい企画だよな、なんて思いながら。 ワールドミュージック・ブームの頃、世界の辺境から続々と発掘されたアーティストの音楽がえれぇ面白くって、えれぇ新しくって、僕達は狂喜したんだったっけね。それは90年代初頭。うへっ、もう10年も経っちゃったんだ…。ハウスもヒップホップもテクノもバリバリだった時代。音楽家は非っっっっっ常に学習能力が高く、野心も強く、研究室でクローンを産み出すかのように音楽を掛け合わせ続けていた。その試みの多くがあの頃の僕には面白くて仕方が無かったわけなのだけれど、今になってよ〜く考えてみたら、それって理屈っぽい音楽だよな〜。厳選された精子と卵子を手袋はめて、ピンセットや顕微鏡使って融合させてクローンを作っちゃうんだもの。今の僕には、愛情や欲情が高まりあって、ヌルヌルしちゃった性器同士を「ふぅふぅ」言って擦り合わせる作法の方が断然良いや。あ、あの頃も「子供の作り方」に関しては、その作法を守っていましたけどね。それにしても、ピンセットと手袋は無ぇよな。そうでしょ? 僕は全てのミクスチャーを研究室の理屈だとは思わないんだぜ。ミクスチャーは大好きだしさ。 けれども、河内屋菊水丸とブレイヴ・コンボの掛け合わせは研究室でのプランだろうよ。「りんけんバンドは3ムスタファス3だったから、こっちは…」なんて発想が見え見えの冒頭曲『テックス音頭』が痛い。河内音頭のフィールドで居心地悪そうに演奏しているブレイヴ・コンボが可愛そうだ。やらせんなよこんなことっ、と僕は憤ったのだったんだが、しかし…。だったんだよ、確かに。だったんだ…。アルバムを聴き通すと、制服組の机上の企みなんぞ吹き飛ばす両雄のガチンコパワーに打ちのめされた。 研究所の精子も卵子も「生命力あふれる本物」だったってことか…。

〜グレイテストな
ベスト 5〜


★★★(2004.01.12)

『栄光のゴールデン・ヒッツ20!!/スージー・クアトロ』 恥ずかしい告白をさせていただく。僕が生まれて初めて目にした外タレはスージー・クアトロだ。つまり、僕が生まれて初めて聴いた生のロックはスージー・クアトロだ。恥ずかしい。 クアトロ以前にも東京ロマンチカ、セルスターズ、堺正章とか、ガロやチューリップのライブを見たけれども、それはちと違う。電気ギターの入ったコンボ形態だとか、シャウトしてたとか、「あれはあれで日本のロックだったのだ」とか、そんな話をしていない。僕が「ロック」と意識して見に行った最初のコンサートがスージー・クアトロだったんだ。「外人が英語で歌うビートの利いた音楽=ロック」っつうショボい意識なのだけど、さしあたってそんな意識さえも初めて持って臨んだコンサートが僕の場合、スージー・クアトロだったの。環境的にも時代的にもタイミング的にも、クアトロだったの。裏返せば、それが誰であっても「生まれて初めてのロックコンサート」だったわけさ。 ニール・ヤングが初めてのロックライヴ体験だった友人の前で僕は口ごもった。 なんだか不服気な僕ですが、コンサートの内容には大満足でしたね。そりゃ、初めての大音量音楽会であったからして感激もしたし、迫力に酔っ払った。比較対象が無かったのだから「最高」だったしな。 しかし、真に満足だったのは、僕がスージーの大ファンであったってこと。だから、シングル曲は全部知っていて、客席でスージーの歌に合わせて大声で歌ったこと。歌いすぎて声がガラガラになり、手拍子しすぎて掌が腫れてしまったこと。 初のロック体験を自虐的に茶化しちゃうのは、その後のクアトロの凋落が僕にとって勲章にならなかったからなんだよな。 なんだか、書きながらセックスの初体験を思い出した。下手クソだったよなぁ、僕は。自虐的に茶化しちゃうよなぁ。 僕のロック童貞を奪ってくれた元祖女性ロッカー。貴女のおかげで僕は大人になりました。 本作で聴く全盛期のシングル群は今もかっこいい。そか、勲章なんだよな。

〜名盤山脈 17〜



★★★(2004.01.19)

『THE WOXO PRINCIPLE/SWOOP』 出版界の年明け企画として恒例の「大予測」。 手元の週刊誌による2004年予測は…、2月にイラクで自衛隊に大損害→小泉首相退陣(福田康夫による暫定政権発足)、北朝鮮は中国からも見捨てられ国際的に孤立→崩壊、ブッシュ大統領の再選失敗→ヒラリーが米国史上初の女性大統領として勝利、などと。他にも誰が離婚するとか、ヘアヌードになるとか、金メダルを逃すとか。ほう、5〜7月に株価は14,000円をつけるってか。 これらの記事を新春に読みながら、年末に検証してやろうなどと毎年思うくせに、毎年忘れて年末を迎えてしまうんだな。ま、その程度に笑い飛ばすべき「予測」ではある。その記事の掲載誌は記憶と一緒に処分しちゃう。 もし、数年後に数年前の予測を読んだりしたら、結果との差異が可笑しいんだろうな。いや、その前に、数年前の記事を読んで、当時のセンスが描くビジョンと「掛け離れた今のビジョン」に愕然とすることってあるでしょ? 戦争地域に自衛隊が派遣されるビジョンをあなたは10年前に明確に描いていましたか? 「どうせ、そんな日が来ると思っていた」という答えも聞こえてきそうですが、それは漠然とした不安が呼び起こした“未来の漠然とした絶望像”ではなかったですか? ニヒルに投げ捨てた言葉と予測は別物だぞ。 さしあたって僕は、本作が2004年にこんな風に聴こえるだなんて予測出来なかったなぁ。 僕は本作に惚れて、スゥープの来日公演にも足を運んだっけ。ファンクをポップロック側で解釈して、低音をエンターテイメント化させた傑作だと確信し、「21世紀の音」を予感し、驚喜した。 9年の時を経てサウンドは古めかしいものに変貌。スライ・ストーンやP−ファンクの引用も知的遊戯から悪ふざけ(まがい物)に印象が変貌。あれれ? ゴツゴツした混ざりのコンピュミックスとか、なまじ有能なバンドの力量や優秀な楽曲が時代遅れの様相。90年代がとうとう「恥ずかしい時代」になってしまったってことなのだろうか。
〜グレイテストな
ベスト 6〜




★★★(2004.01.19)

『萩原健一の世界/井上堯之バンド』 映画『太陽を盗んだ男』のサントラがダサい、という批判を読んだ。読んだ、っつってもインターネットにあげられたレビューに、そんな書き込みがいくつか。 な〜に言ってやがる! モダンと理解しやすいサウンド以外はダサいとしか聞こえねぇんか、テメエの耳は? 僕は21世紀に『太陽を盗んだ男』を改めて観直して、画面に映りこんだ時代の空気と音楽が心地よくマッチしていたことに驚いたぞ。街の風景にも、音楽にも時代の空気が詰まっていた。そんな物語や環境を舞台にジュリーはシラけ、焦っていた。『青春の蹉跌』や『アフリカの光』にもそれは言える(『青春の殺人者』のゴダイゴにも同じことが言えるぞ)。演奏はどれも井上堯之バンド。 本作はショーケンがらみの物語映像を音楽面で演出した劇中音楽のコンパイル。 なにしろ、『前略おふくろ様』の音楽が良い。アコースティックギターとピアノの響きを活かした楽曲がダイレクトに感情に届く。ギターやピアノが際立っているわけではない。グシャっと塊になったサウンドから、薄くこみ上げてくるギターやピアノの響きが、僕の心情的には一番訴えてきたってこと。僕のこの感情の揺れ動きの原因は・・・なんつって探ってみたら、どうやら原因はアコギとピアノだった、っつうニュアンスね。 75年放映の『前略おふくろ様』では当然、音源がモノラル。DVDやビデオで確認できる。本作はステレオで音が綺麗に分離。しかし、そんなことに左右される類の音楽ではない。また、ドラマのシーンを思い出す必要もない。音楽が鳴った瞬間に心の中に風景が浮かぶ。風景と言うよりは、心の中の温度が出来上がるとか、心の天候や季節が決定するといった表現が適切かも知れない。 井上堯之の音楽には、そういった心の外環境に直結した魔術があるように思える。メロディだとか、サウンドメイクの面であれこれ言っても仕方のない音楽だと僕は思うな。 井上のポジションはギタリストというよりは映像の編集マンみたいなさぁ。

★★★(2004.01.26)

『PUNK SIDE STORY/SCHLONG』 あの超有名にして、超素晴らしい楽曲をパンクでリアレンジした企画もの。パンクと相性の良い楽曲(『クラプキ巡査への悪口』は、これこそが正しいアレンジのように思えてくる。「Fuck You!」だもんな…)はまだしも、パンクへのコンバート不可楽曲にさえも容赦ない。思わず「ばかーっ!」と叫びたくなる箇所も多々。この場合の「ばかーっ!」は「ぷぷぷっ、お馬鹿系ですねぇ」と微笑みを浮かべて寛大に囁く言葉ではない。青筋立てて、そう、こまわり君に突っ込みを入れる西城君みたいな勢いで発した叫びだと思って欲しい。 『トゥナイト』の取ってつけたようにデュエットが鶏を絞め殺したような金切り声で「トゥ〜ナイ・トゥ〜ナイ」と連呼。 さて、劇中で僕が最も好きな『アメリカ』であるが…。オモチャ箱をひっくり返して、散らばったオモチャをハンマーで叩き壊して、その破片を四方八方にブチまけて、乱暴に足でザッザッと蹴り散らかした風情。それはそれは乱雑な行為なのだけれども、しかし、それは見苦しいものではなく、それはそれでキラキラと輝いている。オモチャの破片が「最小単位で成立しているカラフルな物体」として新しい意味を持っている、と言うのかな。元々がオモチャだったのだと思い出しさえしなければ、それはそれで美しい物体ではある。 本作の制作主旨に強烈な「デストロイ意識」は感じなかった。バーンスタインという権威に対して立てているものは中指ではなく、忠誠心だ。原曲の味は決して損なわない自制心の効いた音楽。『恋は永遠に』なんぞは、優秀なポップパンク曲として生まれ変わった。 制作動機は、物語を現代(現代、っつうかパンク世代)の感覚に変換して脳内で再生してみたい、ってな可愛いものだったんじゃないかな? 原作の不良スタイルが古いもんねぇ。 図らずも僕が潜在的に『ウェストサイド物語』に感じていた不足要素が露呈した。 それは、歪んだ電気ギターの音とセックス表現だ。僕の世代には不可欠なんですもの。 関連(
〜Drive to 80's Vol.46〜



★★★☆(2004.01.26)

『黒豹 FELINE/ザ・ストラングラーズ(8)』 今のところ、僕にとってのストラングラーズ最終作品。 いやいや、本作の後にもアルバムがリリースされていることは知っている。ヒュー・コーンウェルがグループを脱退して、それでもグループが存続していることも。 しかし、本作に大満足し、本作リリース時のライブ映像に大失望したことによって僕は一方的にストラングラーズを終わらせた。本作以降のアルバムの評判も耳にするのだけれど、本作をもってストラングラーズが解散してくれてもかまわなかった。いや、そうしてくれた方がありがたかったかな。そういう類のファンの思い入れがアーティストにとっては迷惑千番であることも理解しているけれども、僕としてはファンにさせられたことの責任は取っていただきたい。 前作までを無かったことにしたかのようなサウンド。生ギターを主体に、シンセが咽び泣く。ヨーロッパの影を美しく描き出した傑作。サウンドの突然変異をアーティストが仕掛けてきた場合に、僕は次の2点を疑う。(1)新しい音楽性によるグループの再スタート(2)各メンバーのソロスタートの方向を示唆してグループ活動を切り上げる。 ストラングラーズの場合は(1)だったわけなのだけど、僕は(2)を薄々期待していたんだな。 ぶっちゃけ、僕は本作の路線でヒューがソロ活動を開始することを望んでいた。本作で控えめなジャン・ジャックに好感を持つし、もはや、ベースはジャン・ジャック以外のプレイヤーもしくは打ち込みが適任だとさえ思った。先に触れたライブ映像でも、ジャン・ジャックのへなちょこなベースに苛立って、彼等と決別したわけで。 やるせないほどに穏やかなヒューの歌声と生ギター。せつない。僕の一方的な目線からはヒューにとってストラングラーズが重苦しい母体であると思われたし、バンドもヒューの美学を持て余し始めていたように感じていた。 ただただ沈殿して聴いていたいアルバム。そうか、僕はこのアルバムで袋小路に入ったままってわけか。  関連(


〜音楽が聴こえる 1 〜


★★★★(2004.02.02)
『光の雨/監督:高橋伴明』 72年に起こった連合赤軍による浅間山荘事件。その事件に至る「前の事件」を描いたドラマ。僕は見終わった後、清々しい後味を噛み締めた。総括という名のリンチ事件は確かにスキャンダラスなのだけど、登場する青年達の心情に打たれた思いで、正直に言うけど、僕は感激した。しでかした事に対する善悪の判別とは別の次元で、ね。 72年に若者だった人間達は凄惨なアジトで過ごしながら、どんな音楽を聴いていたのかな、と考えた。ふと、考えた。いや、アジトは外部の情報が遮断され、音楽なんて聴いていたとは思えない。それこそ「反革命的な精神」として自己批判を求められそうな行為だ、音楽鑑賞は。しかし、71年には彼等は“俗世”で音楽を耳にしていたと思われ。そんな音楽がアジトの中でも若者らしく頭の中で鳴っていたんじゃいか、と。 71年のヒット曲は『17歳/南沙織』『おふくろさん/森進一』『さらば涙と言おう/森田健作』『戦争を知らない子供たち/ジローズ』『出発の歌/上条恒彦+六文銭』『翼を下さい/赤い鳥』『真夏の出来事/平山三紀』『また逢う日まで/尾崎紀世彦』『イマジン/ジョンレノン』『メロディーフェア/ビージーズ』『オールドファッションドラブソング/スリードッグナイト』『ブラウンシュガー/ローリングストーンズ』『天国への階段/レッドツェッペリン』『マミーブルー/ポップトップス』『スーパースター/カーペンターズ』『吹けよ風、呼べよ嵐/ピンクフロイド』など。名曲が多い年なんですね、実に。 中には彼等にとって皮肉っぽい存在の楽曲もある。 僕は一曲を指定したい。アジトで聴いて欲しい楽曲は一曲だ。 『ブラウンシュガー/ローリングストーンズ』。 僕は、この楽曲を聴くと何故か凶暴な感情に駆り立てられる。本作を観終わった直後に頭の中に浮かんだ楽曲だったが、71年の楽曲と知って驚いた。 せめて、この曲のイントロに駆り立てられて参加したリンチであってくれたなら…。 僕の気持ち、わかる?
〜歌謡曲を聴く70〜



★★★(2004.02.02)

『PINUP BABY BLUES/シーナ&ザ・ロケッツ』 一曲目『PROPOSE』が好きだ。歌詞、メロディ、歌唱、演奏が極上にキュート。なんたって、サビの歌詞が良い。「友達のままじゃいられない/ひとつのベッドで眠りたい/眠れなくてもかまわない」(作詞:糸井重里) この曲は、初めて聴いた日から僕の恋愛のテーマソングになった。いや、なったような気がする。 この楽曲をテーマソングとした僕の恋愛は、どれだけキュートなものだったと言うのだろう? ひとつのベッドで眠らない夜を何度も過ごしながらも、友達のままだった彼女A。 たった一晩の眠らない夜の後、必ずしも良い意味ではなく友達ではいられなくなってしまった彼女B。 朝が来て家を出た時、何故かまた友達同士として振舞った僕と彼女C。 寝たフリをしてまでも僕が友達関係を固持した彼女D。 眠らない一晩を境に僕と良い友達になった彼女E。 などなど。 「友達のままじゃいられない/ひとつのベッドで眠りたい/眠れなくてもかまわない」 なんだか、思い出すのはテーマソングとは掛け離れた記憶ばかりだ。「友達のままじゃいられない」とは、「次のステップ」を受け入れる覚悟と責任であるわけで…。主体は「ひとつのベッド」で過ごすことなんかではないわけで…。僕の過去の恋愛は相手を傷つけてばかりだったのではないだろうか、と悲しくなってきた。ひとつのベッドに入る時の僕の気持ちはいつだって『プロポーズ』の歌詞の通りだったはずなのに。 恋愛で重要な局面は開始時の気持ちではなく、気持ちの持続や発展の経緯なんだよな。 改めて「友達のままじゃいられない/ひとつのベッドで眠りたい/眠れなくてもかまわない」というフレーズを噛み締め、僕は反省しています。土下座したい気持ちです。 もう、経験(だけ)を無闇に増やしたくなんてない。「友達」という言葉も都合よく使ったりしません。 友達として友達以上の存在として、ひとつのベッドで眠ったり眠らなかったりする一人の彼女がいたら、それでいい。

【メレンゲでGo!! HOME】  『メレンゲ今週のCD』

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