〜名盤山脈 23〜
★★★(2004.06.28)
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『セカンド・ハネムーン/デフ・スクール』 リバプール出身。音楽的にはビートルズというよりも「オペラ期のキンクス」に近いかも知れない。キンクス同様に芝居っ気たっぷりの楽曲やパフォーマンスが満載。ケヴィン・ゴドレー&ロル・クレームほどには悪ノリしないけれども、エリック・スチュアート&グラハム・グールドマンよりは悪意もユーモアも高いというポイントを座標上で想像してみてください。それが、デフ・スクール。 歌詞を読まずに音楽を聴いているだけで、僕の周囲の風景が変貌していく。アイリッシュパブになったり、場末の劇場になったり、深夜の波止場や空港、白昼の都市、孤独な荒野、などなど、などなど。ま、アイリッシュパブってのはアイリッシュトラッドが聴こえてくるという意味ではなく、荒くれのアイルランド人がポテトをつまみに酒を飲んでいる居酒屋が目に浮かぶってことなんだけどね。ウディ・アレンが皮肉っぽくジョークの題材にするアイルランドパブを僕の空想で作り上げてしまうんだな。そう、情景を空想させてくれる視覚的な音楽。一曲の中でさえ、風景は明確に変貌する。映画を観ているような気分。その意味ではゴドレー&クレーム在籍時の10ccに近い感触がある。フレディ・マーキュリーのセンスにも通じる。しかし、デフ・スクールの音楽はもうひとつ地味な印象。いや、彼等がやっていることの要素を挙げ出せば、10ccやクイーンよりも多彩になりそうな気はする。挙げ出したりしないけどね。もしかしたら、キンクスよりも多彩かも。であるにも関わらず質感が地味。思うに、「華」が無いんだよなぁ。万人受けする色気が無い、っつうか。事実、彼等はマニアの宝物になってしまったわけですね。少なくとも日本では、ね。 リーダーのクリフ・ランガー(クライブ・ランガー)が、後にビッグネーム(コステロ、マッドネス、ボウイー&ジャガー等)のプロデュース業で大成功、ってぇ展開もよ〜く理解できる。デフ・スクールに欠けていたものを外部から埋め合わせたわけですね。
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〜ワールドサイド
を歩け!! 31〜

★★★(2004.06.28)
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『ドント・ストップ・ザ・ワールド/デフ・スクール』 ビートルズの文脈からスタートしてよりハイセンスなポップスを志すならば、必然的にブルースの呪縛から遠のいてしまうのだろうか? 10ccとかセイラーとかXTCとかさぁ。あらかじめノウハウを取得されていたマッカートニーばりのポップメロディに、何故かトラッドも含めたワールドミュージック的なセンスがブレンドされていくのな。しかも、その相性は抜群で、混ぜ合わせのセンスがまた高尚なんだ。 ひとつには「コードの制約」を回避しようとする意識の問題があるだろう。ジャジーなコードに目覚め、ボサノヴァのテンションに驚き、その後、エスニック音楽の「ブルース規格外のコード進行」や「ブルースを思わせないメロディ」に夢中になっちゃう、みたいな。また、似た意味ではあるのだけれど、リズムや構成楽器をも「ロック規格」からどこまで遠ざけるか、という意識が働くのかも知れない。 つまりは、ヒネクレ者だということだ。そう言えば、「ヒネクレポップ(それを「ロンドンポップ」と総称していた奴もいたっけな)」が好きな友人達は皆ヒネクレ者だった。何故かワールドミュージックにも鋭く反応した奴が多かった。唐突にジャズを聴いたり、歌謡曲に詳しかったり。もちろん、僕もヒネクレ者だった。そして、転調が好きな奴ばかりだった。転調とワールドミュージックって全く別のファクターだと思うのだけれど、「堅実な在り方」を避けるという意味で動機は同じだったのかも知れない。 デフ・スクールは同じ構成のギグを二度としなかった、などというエピソードを聞くと僕は思わずニヤリとしてしまう。「普通じゃない」ことに命を張っていたんだなぁ、と。やりやがるな、と。 本作収録の10曲は命を削って「ヒネクレ道」のスジを通した名曲ばかり。ワールドサイドで口笛を吹いているかのような楽曲も何曲か。中でも『タクシー』はたまらない名曲。何百回も聴いた。 この楽曲は「ロック規格外の音楽の歓びをキミは知っているかい?」と僕に手を差し伸べてくれる。
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★★★(2004.07.05)
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『“鬣”/Go! Go! 7188』 ザクザクとした音がストーンと投げ込まれて、ゴロンッと転がってくる。 ギター、ベース、ドラムスの3ピースが、全員で同じアクセントだけを作っているかのようなアンサンブル。ドラムスも含めて全員が同じフレーズを弾いている、っちゅうか。それって、案外、前例が無いような気がする。凝縮された有機的なビートが出現。各自の演奏は上手いんだか、下手なんだかよくわからないけれども、このビートは技巧なんかを超越した凄みがあるね。つまり、(一人一人の技巧はさておき)バンドの技巧は高い、ってことか。ホントか? アルバム3枚を立て続けに聴いたのだけれど、基本的にどれも同じだった。っつか、どの曲も金太郎飴みたいで同じ印象。全ての曲が、メロディは練られているし、悪態だらけの歌詞も鋭かったりふざけていたりで面白い。であるにも関わらず、基本の数曲が少しだけ改造されて別の顔を作っているだけ、みたいな印象。似てる。いや、けなしている気はない。そんな楽曲を一気に聴き通すことで、ようやく湧き上がる感情ってぇのも確かにある。僕は「むひひ」なんつって舌なめずり。さしあたって立ち上がりたくなった。ダビングの少なそうなパンクサウンドと投げつけられる悪態が時間経過とともにヒダヒダに耳の奥に塗り込められていくんだな。なにしろ、テンションは高いまんま全曲突っ走ってんだからさ。試してみたのだけど、CDをセットしてランダムに再生した楽曲がいきなりピークを作ってくれた。そんなハイテンションなパンクを一気に10数曲。舌なめずりするって! 「昭和の歌謡曲的なメロディ+パンクサウンド」なんつう言われ方は本人達もファンも飽き飽きしているんだろうけど、こりゃ説得力のある発明品だと改めて実感。激しいくせに聴き易いよね。とは、言うものの後発である分だけ、椎名林檎との相似指摘は免れない。林檎の強烈な灰汁を抜いたスイート感、僕的には好きだけどね。 でも、灰汁に凝縮している旨味にこだわるグルメには薄味かも。 |
〜名曲を見てよ 2〜

★★★☆(2004.07.05)
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『グレイテスト・ビデオ・ヒッツ1/クイーン』 クイーンの初期音源は音が汚い。ギターやコーラスをダビングし過ぎてテープが劣化したり、ノイズが増幅されてしまっているからだ。『ボヘミアン・ラプソディ』で、テープ品質の限界を超えるまでコーラスをダビングした逸話は有名だろう。僕はかねてから生前のフレディ・マーキュリーに大容量のハードディスクとプロツールズをプレゼントしてあげたかったな、と思っていた。「どうぞ、劣化を気にせずに満足が行くまでダビングしてください」、と。 しかし、本作を観ていて、どうやら、そんな感傷的な気分が吹き飛んだ。 クイーン(特にフレディ)って「完璧主義」と言われ続けていたように思うけれども、全然完璧じゃないのな。 口パクが楽曲と揃っていない、とか、やる気の無さを隠していなかったり、衣装がテキトーだったり、演出もショボイ(ただ、4人が演奏している姿がカッコいいバンドだったのだと再認識!)。副音声のブライアンやロジャーは投げやりな発言が多い。歌詞を作るのが面倒くさかった、とか、ビデオ制作にも口出ししていなかった模様。特典映像では『ボヘミアン〜』のピアノは演奏ミスが残っている、などと暴露。 クイーンにとって、新しく閃いた斬新なアイディアを素早く商品化することが最優先事項だったのだろうな、としのばれる。「これを終えたら、とっとと次の曲に進むぞ」ってな意識が先走っていたんじゃないか、と。フレディの頭の中には常に新しいアイディアが湧き出ていたのだろう。プロツールズでディティールに凝っている暇なんぞは彼には無かったのかも知れない。 その意味で、クイーンはアナログの世界でやりたい放題のアクロバットを展開したグループだったのだなぁ、と今更ながらに感激した。テープの劣化過程を確認することで、自身の行き過ぎたアート性を実感して酔い痴れていたのかもね。フレディ、ラヴ! ところで、(まさにプロツールズ使用と思われる)サラウンドリミックス、僕にはトゥーマッチ。いつもしている話だけれど、録音時点で完成した音を疑うなよぉ! |
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〜名曲を見てよ 3〜
★★★(2004.07.12)
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『ジギー・スターダスト/デヴィッド・ボウイー』 僕がボウイを最も崇拝していた時代にこの映像を見たかった。そんなわけだから、本作公開時に僕は真剣な対応をしていない。もう、ボウイ崇拝者ではなかったからね。今もね。 ボウイ崇拝時代の僕に『ロックンロールの自殺者』を歌うボウイの姿を見せてあげたかったなぁ。映画『クリスチーネF』で『ステーション・トゥ・ステーション』の口パク映像は見ることが出来た(NHKの来日映像でも、ね)。残る重要映像は『ロックンロールの自殺者』だけだった。その2曲は良くも悪くも僕のボウイ崇拝時代を象徴している。 20年ぶりの本作。 グラムロックが好きなくせに、僕はグラムの演奏家を三流だと思っている節がある。ところが、本作で聴くスパイダーズ・フロム・マースの演奏はライブバンドとして優秀。レコードで聴くことの出来る猥雑なムードが、より猥雑に演奏される。特にベースとギターがエロティック。録音物に比較的忠実な演奏を聴きながら、あれらのアレンジは完成度が高かったのかもな、と思った。計算されて削ぎ落とされた音の中で楽器同士が綿密に絡み合っていることを理解。ギターがリードを演奏している瞬間にも音圧がキープされているなど、高度な編曲&演奏力だ。 一方、ボウイのボーカルがレコードと同じ声であることにも驚愕。あんな鼻歌のくせに、大音量のロックとして成立していたんだなぁ。唐突にトーンッと発せられるヒステリックなシャウトもレコードのまんま。冷静で計算されたパフォーマンスだね。『ロックンロールの自殺者』での悲鳴が本当の嗚咽であるはずもなく、ボウイの演技であったからこそ、ボウイの本音が聴こえてきたような気がして、十代の僕は救われていたんだ。 『気のふれた男優』で見せるボウイの“険のある目つき”を見つめながら、「僕はこの人について行きたかったんだったなぁ」と崇拝時代の僕を理解した。 『ロックンロールの自殺者』で「君は一人じゃないぞ!」と会場を指差すボウイの姿。崇拝時代の僕ならば、涙を流して幸福感に酔っただろう。 |
〜Drive
to 80's
Vol.52〜

★★☆(2004.07.12)
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『アタック・トリートメント/ちわきまゆみ』 ほとんどビョーキ。 80年代初頭の合言葉(キーワードではない)。つまり、病気ではなかったわけさ。病気のジャンルも神経系のものなのであって、盲腸炎とかではない。そんな頃、僕は盲腸炎で入院したんだが、退院後に病名を知った友人は「精神病じゃなかったのか」とガッカリしていた。なんとなくビョーキに憧れた人間は確かに多かった。 そうそう、「正気な目をしたビョーキぶりっこ」ってのもいたよな。男にもいたけれども、女の子に目立っていた。その系列は後に「不思議ちゃん」と総称されたわけだ。余談だが、そーいうタイプの女の子に「案外、まともじゃん」なんて指摘したが最後、「自分の神経はいかに危ういか」という話を延々とされたものだ。もちろん、正気の目で。 ちわきを聴くとそんな女の子達を思い出す。と言うか、ちわき自身がそんな女の子の象徴だったよな。サブカルシーンが必要とし、人工的に創出した象徴的アイドルがちわきだったのだろう。ルックスの良さも含め、ちわきにはそれに応える資質があった。ファッション面を優先しながら、先鋭のプリンセスとして鎮座していたものね。 象徴としてのちわきに命を与えたのが音楽活動。歌詞&楽曲提供者は「人形師」みたいな役割に思えるね。それにしても人形師の布陣が凄い。赤城忠治、外間隆史、沖山優司、岡野ハジメ、ホッピー神山、泉水敏郎、巻上公一、吉田仁、下山淳、成田忍、ピンキー青木、JUN…。なんだか、当時の『宝島』誌の検索キーワードみたいですな。 露骨にケイト・ブッシュ的だったり、新解釈のグラムロックやパンクロックなど、「不思議ちゃん」な企画意図が実に明確で、フックの強いプレゼン効果抜群の楽曲が陳列される。そう、CM的でカタログ的。サウンドはギリギリのところでネジれているが、至極まとも。当時も思ったけど、ボーカリストとしては声(及び歌唱)が致命的に良くないという商品上の欠陥も露呈。 赤城忠治の仕事(『オーロラ・ガール』『プリーズ・プリーズ』)だけが素敵にビョーキだと思う。 |
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〜来日直前企画〜

★★★★(2004.07.19)
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『ア・リトル・サウス・オブ・サニティ/エアロスミス』 やばいっ!
エアロスミスのライブ初体験直前だ! 初来日の壮絶な模様は洋楽誌のグラビアを、レロレロと指を咥えながら穴の開くほど見つめ倒して興奮した僕だ。しかし、その後の度重なる来日公演を観に行く動機がなかった僕の心情は前回(←Click!!)に書かせてもらっている。 唐突にエアロ初体験の機会到来。察しはつくと思うのだけれども、『THE
ROCK ODYSSEY 2004』におけるザ・フー初来日という大事件の余禄ではある。ザ・フーのついでにエアロが観れちゃうわけだ。なんなら、僕はザ・フーのステージが終わったら、エアロを観ずに帰宅しちゃってもいいわけだ。 などと無意味な強がりをしながら、予習用に本作を引っ張り出した。98年リリースのライヴ音源。Disc1の内容がカムバック後(80年代以降)の楽曲で、僕のようなロートルファンには馴染みにくく、Disc2の往年の楽曲(70年代)ばかりを聴いていた。う〜ん、言葉にしてみて実感するけど、それって親父のリスニングだな。情けないわ…。近年のセットメニューは本作のリストに近いわけで、Disc1を外すわけにはいかない。っつか、エアロは外してくれっこない。で、真面目に聴いてみるってぇと、80年代以降も名曲多いんスねぇ。一旦、エアロを身辺3m以内に引き寄せてみないと楽曲の良さに気づけないとは、まったく情けないリスニングだわ…。まぁ、良い!
気づいた! 名曲が多い! ひとたび気づけば、素直に聴ける。そうか、エアロって演奏上手いんだねぇ(あ、当然?)。屈強のリズム隊。ギター2本のコンビネーションの巧みさ。信じられない声量のボーカリスト。ロックンロールでファンキーで奥が深い。 高齢バンドとしてロックの寿命を延ばしているのは、ミックやポールではなくエアロだな、と確信。 プロモーションで出演した報道番組で「日本の50代のお父さんに一言」と問われたジョー・ペリーは「俺達の歌を聴いてくれ。俺達は50代さ。これが、50代の勇気なのさ」と真面目に言い切った。 かっこよすぎる…。 (関連) |
〜来日直前企画〜

★★★☆(2004.07.19)
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『フーズ・ベター・フーズ・ベスト/ザ・フー』 やばいっ!
ザ・フーのライブ初体験直前だ! しかも、ザ・フーは初来日だ! 僕にとって、死ぬまでに一度でいいから拝んでおきたかった「最後のアーティスト」。そして、もう諦めていた「生ザ・フー」。 ジョン・エントウィッスルはこの世にいない。キース・ムーンはとっくにいない。ロジャー・ダルトリーはプロレスラーみたいな体格になってしまった。ピート・タウンジェントはプロレスラーみたいな体格になった上にハゲだ。厳密に言ったら、それはもうザ・フーではない。ザ・フーには特殊なリズム隊が不可欠だし、スマートな体格とファッションセンスも重要だ。だから、今回初めて来日するバンドは、「過去にザ・フーだった音楽家が“ザ・フー”と名乗って演奏会をする便宜上のバンド」なのであって…、それから…、それから…。 ごめん! なんだか、書いていてしゃらくさくなった!
初めてザ・フーを生で体験するということの意味が僕の中でリアルに捉えきれておらず、だから、どうやって興奮してよいのかもよくわからず、アジャコジャと言って落ち着いているフリをしていただけですぅ。実は来日直前の今日まで、あまりザ・フーのことは考えなかった。「ザ・フーが来るわけねぇじゃん」と心に言い聞かせて鎖をかけていた僕の心情が、どうにも事態に対応できなかったの。 やっと少しづつ温度が上がってきた気持ちに油を注ぐ為にザ・フーを聴く。アワアワした僕は、何から手をつけていいものか判断できず、ベスト盤に手を出した。初々しい! 一曲目『マイ・ジェネレーション』を聴きながら、とんでもない事態にようやく気づく。 嘘?
ザ・フーが日本でライブをやるの〜!? それ、観れちゃうわけ?
ホントにっ!? そうかぁ。 僕はザ・フーのライヴを観ます。 あ、やばい、考えただけで泣きそうだ。 この20年間も、「幻のザ・フー来日公演リスト」を思い描いてきたけれども、僕の方針にも変化はあった。今は『ババ・オライリー』がすごく楽しみ。 僕とピートの「不毛地帯の10代」を抱きしめるんだ! (1・2・3・4・5) |
〜ワールドサイドを
歩け!! 32〜

★★★★(2004.07.26)
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『nil fm/nil karaibrahimgil』 輸入CD規制法案が喧しい今日この頃、国内盤が発売されていない商品を紹介するのは心苦しい。まして、そのアーティストが英米人でないならば(トルコ人)、入手は困難を極めるのかも知れない。しかし、草の根を分けてでも聴く価値のあるCDというものがある。是非、アナタに探して欲しいCDを紹介したい。 架空のFM番組を思わせる演出構成。ジングルやラジオノイズのSEはザ・フーの類似コンセプト作『セル・アウト』を思わせる。最新テクノロジーでギミックを凝らした本作は当然だけれど、『セル・アウト』よりもモダン。そう、「モダン」というキーワードが久々にしっくりときた。R&Bやジャズ、ブルース、ポップスといったアメリカ的要素とトルコのエキゾティズムが的確にブレンドされた楽曲群はバラエティに富み、何度聴き返しても飽きることがない。シャンソンさえもエキゾティズムとして自然に配合されている。教養的な価値観のエキゾティズムではなく、娯楽的なエキゾティズム。複雑な構成で各パーツの音楽的エレメンツを楽しませてくれる楽曲は過激な歌劇(ミュージカル)みたいで、ゾクゾクする。一本スジの通った音楽見本市。 アメリカ仕様のハイパーR&B風のバックトラックがメインだが、これも一筋縄ではいかない。ストリングスや生ギターの掛け合わせが巧妙で、上質な安定感と過激さを併せ持っている。曲毎に、また、一曲内にデジタルとアナログの構成比率が目まぐるしく変化。クラリネットやアコーディオンの響きに思わず昇天。僕はマドンナやビョークの次なる着地点を思い、ケイト・ブッシュが生きていたらこの音をやって欲しい、とも思う。死んでないってか…。 素晴らしい楽曲とアレンジ以上に素晴らしいのがボーカル。ハスッパな印象はロック的であり挑発的。 CM音楽メドレーという風変わりな楽曲でコカ・コーラのトルコ版CMが聴ける。これがトルコ人である彼女とアメリカのスタンスなのだろう。批評も賞賛もあり、と。 発売はソニー・トルコ。是非とも! (関連) |
〜歌謡曲を聴く75〜

★★★(2004.07.26)
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『京都の恋/渚ゆう子』 イントロは琴なのだろう。寄り添うストリングス。ベースとハモりながら下降する琴と同じタイミングでストリングスが上昇し切ったら(ここまで4小節)、ベースの白玉の余韻と供にそれらの音は全て消える。すると、ペラペラの電気ギターの軽薄なコードストロークとドラムスが突然現れる(そのパートが4小節)。タムを中心としたドラムスのフレーズは軽く叩かれるシンバルをきっかけにスネアとロータムのコンビネーションによるフィルインに切り替わり、ベースが間を生かした8ビートを軽く添える。これを合図に歌が登場。 シングル楽曲であり、アルバム一曲目であり、アルバムタイトルでもある『京都の恋』のイントロ。この導入部が好きだ。好きでたまらない。 音圧勝負だったり、導入部の「掴み」に躍起になる現在のサウンドメイキングでは考えられないデコボコなアレンジ。以下、ギターコード、ベース、ドラムス(フィルインが最高!)を核に、ストリングスが色を添え、琴とギターのオブリガートがベースと絡んだり、絡まなかったり。 恋に破れた女が傷心目的で訪れた京都で「このまま死んでしまいたい/白い京都につつまれて」と泣き言をこぼす。収録された12曲はどれも女の泣き言であり、渚ゆう子の歌唱は25歳という年齢に似合わず大人の色気を漂わせ、そう、修羅場をくぐった情念がある。ところが、『京都の恋』だけは情念が薄い。プラスティックな印象。 日本的な叙情や日本的な情念(演歌?)をR&Bのビートと融合する上での歌唱表現としてディレクションされた淡白さなのだろうけれども、この歌唱が音楽性を向上していると思うんだな。歌詞への共感は削いでしまおうとも、音楽性が向上。“ベンチャーズの作曲が云々”という以前に、その冒険心に僕は心酔。そして、リスペクト。 そう考えると、『京都の恋』のイントロが偉業達成直前のちょっとナーバスな助走なのだと感じられる。 そして、その跳躍は確実に日本の歌謡史に金字塔を築いた。 |