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メレンゲ今週のCDご紹介55

マイク・オールドフィールド、AUDIOFACT、ジュディ・シル、チャー、
ゼルダチューブスチョプスイ・ロック、岡田徹 presents L・G・O、時の葬列

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)

〜名盤山脈 27〜



★★★☆(2004.09.06)

『チューブラーベルズ/マイク・オールドフィールド』 元祖宅録アルバム。コツコツとダビングすること2300回。コンピューター制御のシステムも無く、ただ淡々と楽器を加えていくストイックな作業は苦行を思わせる。 本作は音楽作品として出来は良いし、なにしろ1800万枚も売れたわけだから文句のつけようがない。しかし、ジグソーパズルのピースをはめ込む類の完成度は感じない。むしろ、イビツなピースを強引に接着した印象。そこで、僕なりに録音工程を推理。 最初に演奏した楽器はピアノであったと仮定して、そのピアノがガイドトラックとなり、ガイドに合わせて他の楽器を重ねていく、と。その場合、ピアノの音色は後々録音するギターなりオルガンの音色とのマッチングを考慮しなければならないわけなのだけれども、本作を聴く限り僕にはその辺の工程がどうもテキトーに思える行き当たりばったりだったんじゃないか、と。「え〜と、さしあたって次はギター録るからね。ん〜、ちょい歪みで!」ってな具合に。楽器が元々持っている音色を無邪気に信じているようで、音色を加工することに“躍起になっていない”ように思える。だからこそ、楽器を順番に並べていく大胆なフィナーレのアイディアが思いついたのだろう。 そこに様々な楽器の音が置かれていくことを楽しみ、その成果を信じ込んでいる、そんなモチベーションがとてつもなく非凡。 また、大胆に展開していく構成に関しても行き当たりばったりな印象を受ける。唐突な展開はコラージュの感覚に近いと思うんだ。構成美よりは衝撃的なインパクトを好むアイディアマンだと思うんだよねぇ。だからこそ、ギターでフィドルやバグパイプをシミュレートする奇抜なアイディアは活きている。 面食らったのはエンジニアだろう。繰り返しが多いから楽曲経過を特定しにくい構成上で何度もテープを巻き戻しては録音ボタンを押すわけだからさ。「30秒ほど前に戻して! 頃合を見て弾きはじめるから!」なんていうオーダーだったんじゃなかろか? そんなやり取りに基づいた作業をただただ淡々と。果てしなく淡々と。2300回も…。

〜ワールドサイドを歩け!! 35〜



★★★★(2004.09.06)

『チューブラーベルズU/マイク・オールドフィールド』 さて、『T』の制作工程の推理に続き、『T』発表後のオールドフィールドの心情を推理する。 『T』の評価は高いし、経済的にも大成功させてもらった。それは“オカルト映画の伴奏”という屈辱を忘れるに足る栄誉だ。しかし…。『T』には後悔しちゃうに違いない要素が多い。余計なお世話だと思うけれども、僕なら後悔するな。各楽器の演奏は完全には程遠い。指がもつれたのか、音は抜けているしタイミングが揃っていない。まぁ、あの時は一人多重録音の競合が少なかったからエクスキューズは出来たし(トッド・ラングレンだって揃ってないしね)、その欠陥を突付いてくる意地悪なプレスもいなかった。それに、2300回のダビングはまじで疲れたからひとつのフレーズに固執してなんかいられなかった。その前に1972年のテクノロジーなんてもんはさぁ…、俺、19歳だったし…、ブツブツ…。 ってなわけで、『U』がリメイクされたわけなんです。「てなわけ」ってホントかよ? 『T』の後悔要素は軒並み改善されていますね。例えば2本のギターが弾くフレーズは恐ろしいほどに揃っている。フィンガリングの正確さにも舌を巻く。フェアライトやシンクラヴィアといった音楽テクノロジーの進化もさることながら、オールドフィールドのスキルも圧倒的に向上したのだろうな。めでたし。 ステレオ定位もドラスティックに改善。『T』の時代には録音システムが脆弱だったくせに、ステレオ感でも自己主張はしたかったものだから、なにしろ不可思議なパンニングやトラック分けが多かった。 とは言うものの、『T』が内包していた“無秩序の魅力”を『U』が軒並みスポイルしたことも事実。隙が無さ過ぎる。危なくない音楽。…なんて言いながら、実のところ、僕が最もよく聴くのは『U』なんだよね。だって、この音楽、綺麗なんだもん。 ところで、『U』に使用されているシンセ音源はまたしても加工の少ない「そのまんま音色」に思えるんだけど、この人って音色をカタログ的に掌握し、扱うことにかけては天才的かつ面倒くさがり屋なのかな、と思う。

〜ワールドサイドを歩け!! 36〜



★★★☆(2004.09.13)
『Asitane/AUDIOFACT』 愛用のパソコンが壊れた。ハードディスクが破損し、様々なデータファイルが吹っ飛んだ。アプリケーションは再インストールやダウンロードすれば済む。まぁ、中には詳細な設定をしなければならないケースもあるから面倒くさいのだけれども復旧だけはするわけです。しかし、自分が作ったオリジナルのデータファイルはどうにもならない。そんな事態を回避する為にバックアップはこまめに取りなさい、というわけだ。取らないんだけどね…。 吹っ飛んだデータファイルのうち、緊急に入用なものは頭の中にバックアップしたリソースから復旧を図るわけなんです。緊急ってくらいだから記憶に新しいわけで、その片鱗はどうにか記憶に残っている。全く同じことが再現できないのであれば、ベターなものとしてリメイクすればいい。前向きだろ? 大事なデータを全て消すなんてことは自分の意思でできっこないことなのだから、これを外圧による前向きな契機と考えたい。そうでなければやってられっこない! さて、本作はトルコのサイケデリックなファンクバンド。「サイケなファンク」を言い換えれば「P−ファンク」ですよね。そうです、かなりP−ファンクのテイスト。ネバっこいリズム、ユニゾンのボーカルコーラス、荒々しいサキソフォン、極めつけはファズで歪んだギターの長いリード。そりゃ、ブーツィー・コリンズもバーニー・ウォーレルもいないから、厳密なP−ファンクの音とは違う。しかし、確実に同じ遺伝子で出来上がっている音楽。サックスソロが理屈っぽく続くパートではゴングの影響も薄く感じる。ま、P−ファンクにせよゴングにせよ、70年代的なヒッピーコミューン型バンドだね。本作のリリースは2003年なのであって、70年代の意味合いでコミューン化しているバンドとは思い難い。トルコだけが特例とも思えないしね。 吹っ飛んで風化した過去のリソース(P−ファンクやゴング)を「よりベターに」という発想で再構築した音楽なのだろう、きっと。本家が存命だったら、生まれなかった可能性も高い。外圧に感謝!
〜名盤山脈 28〜



★★★☆(2004.09.13)
『JUDEE SILL/ジュディ・シル』 「素うどん」や「かけ蕎麦」がある。うどんには揚げの一枚もつけて「きつね」にしたいと僕は思うのだが、蕎麦に関しては「かけ」も案外美味しい。一方、「素ラーメン」は一般的ではない。以前、「ワンコインラーメン」というものを食べたのだけれど、スープと麺と刻みネギだけのラーメンが基本型(500円)で、チャーシューやシナチクは追加料金でトッピングするという商売上手な発想のものだった。「素ラーメン」では満ち足りない欲求がトッピングに救済を求める、っつう狙いなのだろう。しかし、僕は「素ラーメン」のまま食べた。だって、そんな機会でも無ければ味わうことは難しいもんね。その店の「素ラーメン」は麺とスープのバランスが良好で美味かったなぁ。つまり、具が無くとも魅惑的なレベルのスープと麺でなければ「素ラーメン」は成立しないということだ。 さて、71年リリースの本作。これが上質な「素ラーメン」なんですね。目を楽しませてくれる一方でスープや麺から意識を逸らしてしまう「具」が無いんだ。シンガーソングライターの存在が100%、と感じる好盤。いや、実のところ、ストリングスやホーンが鳴っているし、ペダルスチールによってカントリー色が主張される箇所もある。ベースやドラムもいる。「具」は存在するんだ。であるにも関わらず、ジュディの歌とメロディの魅力ばかりが際立つ。歌が麺でメロディがスープだね。ヨーロッパトラッドのテイストを感じさせるメロディは、まさに複雑で繊細なダシによってコトコトと完成されたスープのような味わい。油分は少なく、さっぱり味。コッテリ系が好きな方には物足りないかも。また、麺の喉越しが良いんだ。やや細めで、ちょっぴりちじれている印象。シンプルなアルペジオのアコースティックギターは軽く振った胡椒のようにアクセントをつけてくれる。添加物無しの健康ラーメン。 食べながら「チャーシューやシナチクを加えてみたらもっと美味かも」なんて想像もしちゃうけど、トッピングの追加オーダーはしない。 同じ味でおかわりを所望。
〜グレイテストな
ベスト 15〜



ジャケは1stを使用
(かっこいいから)

★★☆(2004.09.20)
『プレイバックシリーズ/Cher』 なんだか、居心地が悪いぐらいに照れ臭い気分だ。チャーの“歌謡界時代”を回顧する照れ臭さもあるし、甘ったるい口触りの楽曲に対する照れ臭さもある。歌詞は、使われる言葉の感覚も舞台となる恋愛事情の感覚も古い。そして、最も居心地悪く照れ臭いことは、その昔、僕がこれらの楽曲を“普通に自然に受け入れていた事実”に違いない。 70年代の日本の音楽市場は歌謡曲がメインだった。それはそれで素敵な時代だったと思う。一方、そんな状況にブチブチと非難がましい御託を並べてやがった奴等も多かったと思う。「だから、日本は駄目なんだ」とか言って洋楽をありがたがる連中。いつだって、今だっているよね、そーいう連中。で、日本のロックは実際のところマイナーで、ルックスが悪かったり、演奏や歌がヘタだったり、楽曲がポップじゃなかったりしたわけさ。「だから、日本のロックは駄目なんだ」などと言ってやがったんだろう、連中は。 そこに登場したのがチャーで、ルックスもギターの腕前も抜群だったわけさ。歌も上手いし。その前身が「マイナーな日本のロックバンド」であったとしても、オーバーグラウンドに姿を現したチャーは貴公子然としていた。もし、チャーがジミヘンとして振舞ったとしたならば、日本の音楽市場は変わっていたのだろうか? 当時の音楽市場の中心的消費者は見向きもしなかっただろう。つまりはマイナーな音楽がもう一つ増えただけの話だ。一方、洋楽指向のあいつらがチャーのファンになったのかと言えば、どうせ粗捜しに励んだに違いない。「だから、日本のロックは駄目なんだ」、と。 だから、チャーがソロデビュー時にとった戦略は正しかったと思う。「日本のロック」の使命とは、その時代の日本の市場で大衆音楽として成立することなのだ。 『闘牛士』はイントロと間奏とコーダでのみギターの自己主張が爆発する。甘くロマンティックな歌唱を生真面目に決めているチャーが、そのパートだけ牙を剥いているようで、なんだか僕は痛快だ。 でも、歌詞は別の意味でも照れ臭い…。
〜Drive to 80's Vol.53〜



★★★(2004.09.20)
『ZELDA/ゼルダ』 本作がリリースされた時、僕の周辺では論争があったっけなぁ。本作におけるモモヨの仕事はオーバープロデュースか否か。モモヨが本作に導入したエレクトロニクスのセンスは楽曲の質感を明らかに向上させている。問題はアナログ盤で言うAB面の1曲目だった。モモヨ楽曲をモモヨ人脈が演奏するというスタイルが、モモヨからゼルダへの不信感を匂わせたのは事実。演奏力が全然違うんだもの。モモヨの私生活に関する“噂”も相まって、私的な愛憎感情までも引き合いに出されたっけな。まぁ、辺境のゴシップだわね。もはや、そんな話はどうでもいい。 その後のゼルダの遍歴や解散を知っている身で聴く本作は、実のところ、ゼルダ唯一のパンクレコードであることを実感させられる。自主制作盤を聴いた時に感じた豊かな感性に最も近い質感。しかし、それはモモヨが作曲や編曲に絡んでいない楽曲に限られる。サチホ、ヨーコ、マル、サヨコというオリジナルメンバーがたどたどしく紡ぎ出すサウンドは、あの時代のゼルダにしか作り出せない世界的にも希少な音楽だ。オリジナルメンバーを無闇にありがたがるような発想は好きではない。しかし、デビュー前のゼルダにはレインコーツやスリッツに匹敵する凄味があったと思うなぁ。本作終盤の『Ahu-Lah』『と・ら・わ・れ』『ソナタ815』に漂う空気感はあの時代のロンドンでも充分に通用したはずだ。この3曲は多くの意味で特別なのだな、と改めて思った。それ以外の楽曲は発想が小さい。世界規模で物を見ているか、国内規模で眺めているかの差という意味で小さい(その後ゼルダが辿った道程は更に発想が小さいよね)。特別な3曲と他の楽曲を並列する為にモモヨが収録楽曲を水増ししなければならなかった事情も理解できるけれど、結果的に本作はデコボコな印象。名盤になり損ねた。 セカンド以降のメンバーも含め、ゼルダとは何故か縁が深かったのだけれど、ヨーコさんが僕の女神だった。東京下町の好い女。日比谷野音で一緒に食べた海苔巻きの思い出は僕の勲章。 関連(リザード
〜名盤山脈 29〜



★★★(2004.09.27)
『ヤング・アンド・リッチ/チューブス』 こんなバンドをやってみたかったな、と思う。チューブスみたいなバンドだ。 多くのジャンルの音楽を飲み込んで、全てをポップに昇華させて吐き出したような音楽性。シニカルでロマンティックで映像的な歌詞世界。演出が盛り沢山のステージ。うん、特に最後の「ステージ」が肝心。大所帯でシアトリカルでさぁ。フランク・ザッパやロキシー・ミュージックよりもチューブスの手法の方が楽しそうなんだな。あ、楽しいのは観客側であって、作る方の苦労は並大抵じゃないよね。演奏はかなり上手くないとまずいし、楽曲のクオリティも問われる。「普通の名曲」なんかは必要ない。そして客観的な演出力が必要。見せて聞かせるバンドって、一歩間違えたらコミックバンドになっちゃう。東京おとぼけキャッツなんかが「日本のチューブス」みたいに評価されたこともあったけれども、ちょっと違うだろ? ってなことを思いながら聴く本作はチューブスのセカンド。まだ、エレクトロニックがゴリゴリってわけではない。知的なソングライティングとモダンなアレンジと確かな演奏&歌唱力が満載。各楽曲に明確なコンセプトが設定されているようで楽しい。それは歌詞が担っている主張でもあり、楽曲の方向性が担う役割でもある。ステージで観客と一緒に歌うことが前提となっている曲や、観客を踊らせる為の楽曲、観客をアジる為の楽曲。ソングライティングの段階でステージの演出は充分に考慮されているのだろう。 とは言うものの実のところ僕はチューブスのステージって見たことが無いんだよね。映像でさえも見たことがないや。過去に見たスチルや記事の内容から、きっと凄いに決まっているステージを予測しているに過ぎない。でも、想像がつくんだよ。本作に収録されている楽曲を聴けば簡単に想像できる。これほどの楽曲を創るバンドのステージは絶対に凄いに決まっている。このアレンジが生で演奏されるだけでも凄い。 そして、チューブスのステージが凄いに決まっている最後の根拠はチューブスが10ccほど恥かしがり屋には思えないことだ。
〜BGMの調べ 6〜



★☆(2004.09.27)
『CHOP SUEY ROCK/V.A.』 チョプスイ。英語では米国風中華料理のことをそう呼ぶらしいが、ロンドンでは野菜炒めに限定される。フィリピンでは中華風野菜炒め(八宝菜?)。ハワイでは「ごちゃ混ぜご飯」。ジャマイカではラーメンもどき。インドでは焼きそば。スリランカでは餡かけご飯。韓国では雑菜。そして、シンガポールで日本兵が行った爪をはがす拷問も「チョプスイ」なんだそうだ。 つまり、謎の言葉。 本作はモンドな楽曲のオムニバス集で、一曲目がザ・インストラメンタルズ(バンド名!)の『チョプスイ・ロック』。中国風、というかオリエンタルなテイストの楽曲をチョプスイと総称してしまっているようで、以下そんな楽曲がダラダラと続く。チョプスイを「空手チョップ」などの「チョップ」ぐらいの意味で認識しているのかも知れない。収録アーティストはどれも無名だが、欧米圏の出身と思われる。少なくとも、構成楽器やアレンジは欧米のR&Bスタイル。 メロディに記号的なオリエンタルが点在し、ドラでも鳴らせば一丁上がり、ってな制作思想ではある。欧米圏は偏見に基づいたデフォルメでオリエンタル(特に中国)のイメージを一般化させたのだろう。情報が過密な現在はともかく70年代には特に、ね。『燃えよドラゴン』にはそんな偏見を逆手にとった描写がある。『ピンクパンサー』に登場するカンフーマンのケイトー(加藤)は東洋人に対する誤解を拡大しただろう。アメリカ編集の『怪獣王ゴジラ』にはベトナム人みたいな衣装の日本人が登場する。ウディ・アレンの映画で何かというと中華料理を食べているのも、偏見が裏返ったスノッブな意識の表れなのかも知れない。そして、本作のジャケットで空手チョップのポーズ(?)を決める東洋人は眼鏡で出っ歯で豚鼻で目が細い。 しかし、先に挙げた映画や本作から伺い知ることは、どうやら欧米人が勝手に決定した東洋のイメージを彼等は嫌いじゃないってことだ。「チョプスイ」は意味を持たずにキーワードとしてのみ機能し、イメージを固定させる。無邪気だ。東洋人の僕は「ば〜か」と笑う。
〜ワールドサイド
を歩け!! 37〜




★★(2004.10.04)
『GOOD PAPA,BAD PAPA/岡田徹 presents L・G・O』 台所で餃子を作っている女に僕はときめく。恋をしちゃう。おっと、「貴女作る人、僕食べる人」とか言う思想とは別次元の話ですので、浅く読まないでくださいね。僕は台所に立つのが好きな男ですから、ひとつよろしく。 具材を刻んだり、こねたりする作業をする背中が良い。でも、もっと良いのは皮の中に練り上げた具材を入れて封をする(って言うのかね?)作業をしている後姿だ。首がやや下がり、両腕の肘がやや外側に突っ張る。あのシルエットがいじらしくって大好きだ。焼き上がってしまえば、皿に盛られた沢山の餃子の群全体を僕達は「餃子」と認識してしまうと思うのだけれど、製造工程では皮に包まれた1個1個の餃子単体が「餃子」なんだよね。やがて、群として認識されてしまう個体がひとつづつ丹念に手作業で製造されていることの尊さも含め、あの姿に僕は感謝と同時に深い恋心を抱く。これはパーティ料理の下ごしらえみたいな状況よりは、2人でする食事の為の製造工程であるべき。まぁ、そんな2人の関係はとっくに近しいわけなのだが、改めて恋をしてしまう、ってわけ。女性の皆様、覚えておいてね! 本作は岡田徹によるアコーディオンを主体としたテクノ音楽。95年のリリース。ムーン・ライダース関連人脈を集めたフレンドリーな大所帯ユニットで、ポルカ風にテクノを決める。クラフトワークの『ロボット』やベンチャーズの『10番街の殺人』などが脱力したアレンジで別次元に着地。オリジナルのボーカル楽曲は、よりムーン・ライダースちっく、かつ、エキゾティックな方針を持っているが、ユニットのコンセプトはインスト楽曲に顕著であるように思う。 数台のアコーディオンが束になってアンサンブルを紡ぐ様は、まるで餃子のようだ。単体のアコーディオン同士が奏でる別々のフレーズも、最終的には「アコーディオン群」という「音圧」となって認識されてしまう。皿に盛られた餃子のごとし。  ところで、アコーディオンを弾く女性の後姿というのも恋の対象であるような気がするのだけれども、どういうものだろうか?
〜Drive to 80's
Vol.54〜




★☆(2004.10.04)
『時の葬列/V.A.』 数年前に「お笑いライブ」を見に行ったんです。若手芸人を集めたオムニバスイベント。あ、パペット・マペットも出ていたな。 居心地悪かった。 なにしろ、芸人が出てきただけで軽く笑いが起こる。何言っても笑う。ミスにも笑う。そーいや、「漫才ブーム」の時にもライブで同じ感覚を味わったっけ。ヌルリとした嫌な感覚だ。 で、「お笑いライブ」を見て思い出したのは80年代の「漫才ブーム」ではなく、80年代のライブハウスの光景だったんだな。「マイナー」を前提に辺境だけで成立する共犯関係。 昨今のお笑いをテレビで見るにつけ、「低いハードルを越えてきてやがる」なんて感じてしまう。いや、何千何万のライバルの中から勝ち進んだ芸人がテレビに出ているのだとは思う。でも、この「絶妙に低くて高いハードル」は80年代に『宝島』とか『フールズ・メイト』とかのサブカルチャー雑誌でバンドが紹介されていた経緯と似ている。厳選しているようで絶妙にユルい「歓迎体質」。つまりは、あの時代の『宝島』みたいに今のテレビ(オンエアバトルとか)はマイナーなお笑い芸人に好意的だってことだ。マイナー好きのファンとメディアの共犯関係が、マイナーな表現者を吸い上げてくれる温情的な状況。「ビジュアル系バンド」がとてつもねぇ売り上げを叩き出した時代とは根本的に異なる。どっちが良い悪いではなく、ね。 本作は80年代マイナーシーンの「寄り合いイベント」の成果物。オート・モッド、マダム・エドワルダ、G−シュミット、サディ・サッズ。今となっては大物になった音楽家や、性別が変わった音楽家の名前がクレジットされている。ファンやメディアが求める「マイナーな退廃感」を生真面目に供給したサウンドは、今聴けば驚くほどに保守的だ。「マイナーな退廃感」の落としどころがピーター・マーフィースージー・スーっつうお決まりの音楽。結局、ファンとメディアとバンドの間の共犯関係とは英国ニューウェーブシーンをなぞっただけのゲームだったのか? 21世紀の耳に耐えたのは唯一サディ・サッズ。

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