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メレンゲ今週のCDご紹介56

ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)、ブライアン・ウィルソン(Brian Willson)、
リザード、LIZARD、紅蜥蜴、山本翔、一風堂(Ippu-Do)、
ザ・シミサリーンズ(THE SMITHEREENS)、砂の器

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)



★★☆(2004.10.11)

『SMILE(?)/ザ・ビーチ・ボーイズ』 クレオパトラの鼻の高さで世界の歴史が変わったかも知れないというのは、どうも驕りが過ぎるように思う。変わってたまるか、と。 一方、昭和29年12月22日に蔵前国技館で実現した力道山・木村政彦による初の大物日本人マッチ(あ、プロレスです。念のため)の終了後、勝者である力道山の「掟破り」に激怒した大山倍達(大物空手家です。念のため)が力道山に物言いをつけ勝負を挑んだ事実もまた有名だ。この時、大山がリングに上がり力道山との公式勝負が実現していたならば、日本のプロレスの歴史は変わったに違いない、と言われる。うん、変わったかもね。力道山が負けたに違いない、という推理を前提とする限りは、力道山の権威が堕ち、プロレスの発展は在り得なかったのかも知れない。大山が力道山に代わるヒーローとなったとしても、興行面での成功は怪しい。歴史は変わっただろう。 あ、ごめん。脇道で熱くなり過ぎた…。 さて、もしビーチボーイズが『ペット・サウンズ』のリリース後に速やかに『スマイル』を発表していたならば、ポップスの歴史は変わったのだろうか? 対抗馬であるビートルズは『スマイル』の影響で路線を変更したかも知れないし、ヒーローの座をビーチボーイズに譲り渡したのかも知れない。おびただしい数のブライアン・ウィルソン・フォロワーが“イギリスから”登場したかも知れない。ポップスはより複雑化し、その反動でパンクの登場が早まったのかも知れない。そして、なによりもブライアン・ウィルソンは“最も成功したポップスター”として活動を続けられたのかも知れない。そうなると、また、ポップスの歴史は塗り替えられ…。切りが無い。 SF小説『グリンプセズ』では主人公がタイムワープして『スマイル』を完成させる為にブライアンに接近する。そう、つまりは、歴史が変わったかも知れないというロマンを『スマイル』は嫌でも喚起するんだ。 本作は数多い『スマイル』の完成形を推理させる為のブートレッグ。 と、ここまでが、“新作『スマイル』”を聴く前の文章。はてさて、歴史は変わるのか?



★★★☆(2004.10.11)

『スマイル/ブライアン・ウィルソン』 全世界のポップスマニアが待ち望んだ音があっさりとリリースされた。 37年前に発表されていたはずの音は封印され、意味深な類似アルバム『スマイリー・スマイル』や、断片的な音や、おびただしいブートレッグや活字情報によって完成品を想像する作業を我々に強いた。その為、“幻のアルバム”は永遠に失われたロマンとして我々の前に姿も無く立ちはだかった。我々は幻影に怯えながらもウットリとした。そのウットリを墓場まで持ち込むことに躊躇いは無かった。少なくとも僕はね。 しかし、その作者は蘇り、“幻のアルバム”を完成させた。もはや、幻影もロマンも脱ぎ捨て、ここにその音が在る。 初めて聴く『スマイル』はポップと前衛を程よいバランスでミックスした傑作だ。コード進行やアレンジやコーラスに施された細やかなアイディアにポカンと口が開き、その直後、膝を正したくなる。荘厳だ。このアルバムが1967年に発表されていたならば、紛れも無くポップスの金字塔となっていただろう。 しかし、何かが割り切れない。21世紀に新しく録音された全曲が本物のビーチボーイズよりもビーチボーイズらしく仕上がっている。いや、あの時代のビーチボーイズやブライアン・ウィルソン人脈の演奏家よりも確実に腕が上で、パーフェクトな仕上がりと言っても過言ではない。レプリカが本物を越えてしまっている。おっと、その前に「本物」なんてこの世に存在していなかった…。 そして、この素晴らしい音楽には21世紀のポップスの歴史を変える力は無い。残念ながら。過去から亡霊が子孫の教育の為に蘇る物語は、未来から猫型ロボットが祖先の教育に訪れる物語ほどの説得力も無い。だって、我々は37年間分の進歩はしたのだからさ。さりとて、本作は歴史年表に改めて埋め込むパズルの断片でもない。だって、年表には空白なんてないのだから! キリストの骨格から声をシミュレートしたようなレプリカの『スマイル』。歴史的価値はもはや闇の中。 しかし、『グッド・バイブレーション』の新録音&歌詞変更に戸惑いながらも、僕はありがたくってたまらない。 せめて、僕の歴史が変われば、それでいい! 関連(LIVE

〜Drive to 80's Vol.55〜



★★★(2004.10.18)
『LIZARD/リザード』 「テクノポップ」のシンセサイザーは可愛いフレーズと音がポイントだと思う。可愛い、って形容詞もどうかと思うけれども、何と言うか、人懐っこいシンセが良い。人懐っこいが故に、エロティックにも凶暴にも化けることができる、そういった感情面で存在感のあるシンセが良い。その意味で、テクノポップのシンセを「無機質」っつう括りでコンセプチャルに仕込んでも、結果的にリスナーの耳には愛嬌のあるサウンドアイコンとして到着していたという事情があったように思う。あの頃のアナログシンセが基本的に単音だったことも大きな要因だろう。フレーズやピコピコなど、どれも単音と単音の連なりで構成されたものであり、それが限界であると同時に魅力でもあったわけだからして。 「テクノ」ではなく「テクノポップ」なサウンドをサンプルとして確認する際に僕がラックから取り出すCDはP−モデルでもプラスティックスでもヒカシューでもなく、本作。リリース当時から今に至るまで、本作は「テクノポップのシンセ」を再確認させてくれるマイルストーンだ。『T.V.マジック』『マーケット・リサーチ』やボーナストラックの『ミーシャ』のシンセって実に理想的。まぁ、実を言って本作はシンセとベースに格別の魅力があると僕は認識し続けている。モモヨのギスギスしたソングライティング&ボーカルや、ガシャガシャしている古いリズムマシーンみたいなドラムスや、地味なギターに魅力を見出しにくい。それはベースとシンセが際立ったミックスのせいでもあるだろう。初めて聴いた時には、もうひとつリザードの魅力を感じることが出来なかった。本音を言えば、僕にとってモモヨの作るメロディラインって趣味じゃない。愛嬌が無いんだよね。人懐っこくないんだ。シンセは驚くほど人懐っこいのに。 ローランドのSH101が発売された時、安いという理由だけで購入した僕は2台のカセットデッキ間のダビングによる多重録音にハマった。ブリブリのベースと単音シンセでリザードごっこを夢中になって繰り返していたっけ。
〜歌謡曲を聴く77〜



★★★(2004.10.18)
『バビロン・ロッカー/リザード』 今回の復刻によって、やっとCDが入手できた。リザードのアナログ盤はどれもよく聴いたけれども、一番愛着があるのが本作。1stや3rdを“サウンドコンセプトで縛ったタイトな方針のアルバム”とするならば、本作は“別ベクトルの楽曲をコンパイルしたなバラエティアルバム”。アナログ盤で言うA面に顕著な明るいメロディもノーマルなボーカルレベル(および、モモヨの明るいボーカル)も僕の好みだ。東京台東区シフトの楽曲が歌詞から認識できるだけで3曲あることも僕の趣味。 「このアルバムはジャン・ジャック・バーネルのプロデュースではない」とクレジットしているように、ストラングラーズの影は微塵も無く、パンクビートに対する執着も希薄。あの当時にはどの楽曲もBPMが遅いな、と感じていた。実のところ、リザードはガチガチのパンクバンドではなかったよな。『さよならプラスティック・エイジ』などを聴くと、なるほどモモヨが公言する通りにキンクスの影響がハッキリと伺える。そんなわけだから、リズムパターンは録音やミックスの味も含めてバラエティに富む。エスノテイストのパーカッションも加味されて、「パンクの定型」とは程遠いビートが出現。その一方、あの頃、好んで聴き分けていたワカのベースは今となってはリズムのベクトルを収束し過ぎているように思える。頑固にひとつの定型を押し通しているような。例えば表題曲のようなダブ楽曲ではドラムス&パーカッションとベースが隔離された印象を受ける。リズム隊が別ベクトルを向いているからなのか、録音工程を密室的に凝り過ぎたせいなのか、本作のビートはどの楽曲もがドライブしているとは認め難い。 『宣戦布告』を聴いて、あの頃着ていたレディース用の「ファッション・ツナギ」にリザード・アーミーのバッチをつけていたことを思い出し、『ゴム』からは速やかに木造アパートとコンドーム(使用前、ね!)の匂いが立ち上がった。そうやって、本作と生活を密着させていたんだな、僕…。 4ビートの『浅草六区』と、エスノな『月光値千金』、良い! 関連(ゼルダ
〜Drive to 80's Vol.56〜



★★★(2004.10.25)
『ジムノペディア/リザード』 リザード月間。これで蔵出しは一旦終了しますので…。 リザードを時間軸に沿って聴き進むと、その変貌にクラクラする。リアルタイムでアルバムがリリースされていたあの頃は更にそう感じていた。テクノポップ・パンク→ニューウェーブと駒を進めたリザードの3枚目が本作。ネオサイケ。判り易く例を挙げるなら、エコー・&ザ・バニーメンとか、U2とか、サイケデリック・ファーズとか。ディレイやコーラスの衣を厚く纏った電気ギターが単音(アルペジオも含む)で「ぺんぺらぺんぺら」と鳴る8ビートもの、っつうかね。マイナーコード多用、陰鬱なボーカル、内省的な歌詞。そう、ちょっと暗い。などと、今の僕は冷静なスタンスを取っていますが、あの頃はフィットしていたし、そういった音楽を志向していた。そんなわけで、1枚目に続いて本作もアンサンブルの参考に聴き込んだなぁ。つまり、リザードはニューウェーブ史の進行に誠実な歩みで、しかし、僕の数歩先を歩いていたというわけだ。僕に限らず、リザードの変貌に驚きながらも納得していた人間は多かっただろう。普通に英国ニューウェーブを聴いていたら、納得できちゃう。もっとも、初期リザードのイメージからの脱皮に憤っていた人間も知っている。そいつと僕の差は、リザードを「聖書」と「参考書」の差で聴いたことなんじゃないかな。 あの頃、アンサンブルを参考にしていた本作だが、今聴くと完成度が低い。フレーズの1つ1つ、ボーカルの1つ1つが場当たり的な印象。迷いつつ、その場で頭を通過したアイディアが生かされ、また、検証のハードルが低いように思う。モモヨの体質って、プリプロに時間をかけた方が好結果を生むと思うのだが、本作はバンドでスタジオ入りして全てを作り上げた印象。そのくせ、モモヨのソロ・プロジェクト化は進行。この矛盾にリザードというバンドがモモヨの足枷になっている印象を受け、モモヨ個人が仕掛けたミックス等の「技」に耳が行く。 『亡命者』が今聴いても名曲。あの頃のモモヨに降りかかった問題や「キミ」の正体とは別次元で。
〜歌謡曲を聴く78〜



★★★(2004.10.25)
『けしの華/紅蜥蜴』 紅蜥蜴はリザードの前身なのであって、スキャンダラスなイメージで伝説的に語り継がれたバンドなのであって、裸のラリーズや村八分や頭脳警察や外道なんかと並べられていた上に、テレビジャックのエピソード五木寛之の小説『夜のドンキホーテ』のモデルとなっちゃったりしたもんだから、僕の中で妄想的にイメージが肥大化していたのであった。強姦とかドラッグとかテロとか、そんなイメージ。まぁ、伝説のバンド(この場合、「伝説としてヤバいイメージのバンド」)の大半がそうであるように、紅蜥蜴も音楽はしっかりしていて、なおかつ少年っぽく可愛らしい一面がある。ラリーズ以外には少年が宿っているよね。特に、この時代のモモヨは声が少年っぽい。善意で言えば、そんな「少年っぽい表現」が大人の常識にとっての脅威であった、っつう「ヤバさ」なのだろう。大人には理解できねぇ、っつう。 時に文学的だったり政治的だったりするモモヨの歌詞って、実を言って僕は中途半端だと思う。その音楽性や音響理論と共にアマチュア的だと思う。だからこその少年っぽさであり、パンクっつうジャンルの特性ではある。なまじの知性と格闘すればするほど、モモヨの音楽には息苦しさが伴っていったように僕は思える。その点、本作の楽曲群は未熟さが実に良い塩梅で昇華されている。どの楽曲も凄み切れていない歌詞とボーカル表現に愛おしさを感じる。70年代のライブハウスで聴いたら心地いいだろうな。やっぱ、キャバレーの2階にあった渋谷・屋根裏がいいな。と、書いて気づいたことがある。その時代って「パンク以前」なんだよな。定型が無い「ヤバさ」のパワーって凄味があるよな。本作の楽曲をリメイクしたリザードの1枚目の楽曲はパンクを学習してしまっている。定型に収束していくベクトル。その点、本作の楽曲のベクトルは外に向いている。 東京ロッカーズ期に録音した4曲はアレンジが洗練されると同時に内側のベクトルを匂わせる。もし、紅蜥蜴が正式にアルバムを録音していたら、名作だったんだろうなと僕は思う。 関連(ゼルダ

〜歌謡曲を聴く79〜



★★★(2004.11.01)
『ロシアンルーレット/山本翔』 掟破りですが、今回はCD化されていない2枚の音源。貴重な音源のCD化を嘆願する意味も込めて。エピックさん、お願い! さて、山本翔。この人は“和製ミック・ジャガーだった人”で、ニック・ネームも「ミック」。キャロルの前座をした際に矢沢永吉が「キミ達ローリング・ストーンズみたい。オレ達ビートルズみたい。仲良くしようや」と声をかけたと言う。すごいね…。 風貌が似ているとは言え、平然と周囲に「ミック」と呼ばせてしまう山本翔の明け透けな姿勢こそが、良くも悪くもこの人の可愛さであり、限界だったのかも知れない。そう、無邪気で無防備なんだよね。 本作のバックを務めているのはデビュー前の一風堂。作曲&編曲で大活躍の土屋昌巳が仕掛けるニューウェーブなサウンドにも山本はまんまと乗ってしまう。宇崎竜童の“チンピラ(ロックンローラー?)かくあるべし”と言わんばかりのワルぶった楽曲では、期待通りにすごんでみせる。当時のロックのイメージだったチンピラ(堅気じゃない、っつうか)の資質を充分に備えた山本のキャラクターは周囲のスタッフや同業者にとって羨望の的だっただろうし、料理したくてウズウズしてしまう素材だったに違いない。しかし、山本は無邪気で無防備に踊ってしまったんだなぁ。矢沢永吉ほどの野心と計算力があったならスーパースターにもなれただろうに。パンク&ニューウェーブの時代が求めていた「企画性」みたいなものは、実のところ最も山本の資質にそぐわないような気がする。料理されてはいけない素材だよな。などと、95年に山本翔が死亡した事実を知ってしまったが故に、感傷的な気分で同情している僕も無邪気で無防備ですね…。 しかし、軽薄な時代が求めた「企画性」ゆえに本作の音楽が素晴らしいのも事実。山本が書くロマンティックな歌詞と土屋のトリッキーな楽曲の相性は今聴いても抜群。「時代の仇花」的な音楽として僕は無邪気に大絶賛できる。本当に良い音楽だ。しかし、山本翔という逸材を押し上げる施策としては明らかにミステイク。それが無邪気に悔しい。
〜Drive to 80's Vol.57〜



★★★☆(2004.11.01)
『NORMAL/一風堂』 パンクやテクノポップのバンドは「下手でナンボ」ってなバリューを持っていたと思う。シド・ヴィシャスがルックス100点・演奏1点であっても、そのこと自体に確実に価値があった。クラッシュが故意に演奏力を落としていたなんて噂もあるくらいだ。そんな時代にあって、一風堂は世界レベルで“出来るバンド”だったと思う。本作の演奏力は実に高い。このバンドがテクニックをひけらかすための楽曲(フュージョンやプログレ)を本気で演奏したら嫌味なほどに上手かったのだろうな。しかし、本作は軽薄。どの楽曲にもお手本になる楽曲や演奏家があって、パロディめいたコンセプトの楽曲が羅列されている。60年代調のキュートなポップスから70年代のプログレ、ハードロック、レゲエ、クラフトワークなどが全てぶちこまれている。さながら、おもちゃ箱。しかし、パロディにありがちな卑屈さは無い。ソングライティングやアレンジや演奏に注ぎ込まれたアイディアのクオリティが高く、またその志も高いことが原因だろう。つまりは「時代のニーズ」を知りぬいた上での戦術が非常にクレバーだったということだ。そして、戦術にもサウンドメイキングにも土屋昌巳の凝り性な性分が発揮されている。衣装やステージ演出も全て土屋のコーディネートだったらしいよ。土屋個人がやりたい放題をやったプライベートプロジェクトが一風堂だったとも言える。ニューウェーブ時代の到来が土屋のモチベーションに火をつけたことは容易く想像できる。しかし、本作の着地点に至るにはモチベーションだけでは如何ともしがたい。時代が望んだトリックスターの役割を請け負うだけの資質と能力が土屋にはあったということだろう。 とは言うものの、本作の評価は土屋昌巳の履歴上もテクノポップの年表上も低いんだよね。無かったことになってる。ま、純粋にテクノポップと呼ぶには抵抗のあるサウンドだし、後の一風堂の世界観とも断絶しているしな。 そんな意味でも、土屋昌巳が時代に揺り動かされた本作はあの時代に一枚しか存在しようがない名盤だと言える。 関連(土屋昌巳
〜名盤山脈 30〜



★★★★(2004.11.08)
『green thoughts/ザ・スミサリーンズ』 今年は夏が長かった。猛暑だ、熱帯夜だ、なんて言っているうちに台風と地震の打撃を受け、気づけば肌寒い日々を過ごしている。 僕はなにしろ春と秋が好きなのね。それはもう単純に。春はウキウキ、秋はおセンチ。そんな定型の感覚と勘繰られてもいいから、「ふやけた奴」と罵られてもいいから、春と秋が好きなの。 「秋の夜長」という言葉にときめく。子供の頃には「秋は夜更かしをしてもかまわない季節」と身勝手に解釈していた。僕は子供の頃からずっと夜更かし派だけれども、秋には大手を振って夜更かししちゃう。なんたって夜が長いんだからさ! 秋の夜長には「幸福な時間」の予感がある。 夜更かしの友はと言えば、音楽・映画・本。いや、おやつや夜食は今は要らない。そうねぇ、レモンティを所望。心を落ち着けて音楽や映画と向かい合う秋の夜長。あぁ、ウットリする。ウットリはするのだけれども、現実にはそんな秋の夜長を過ごした経験が僕には無いような気がする。「さぁ、秋の夜長を楽しまなくっちゃ!」と大慌てで気負って過ごしてばかりいたような…。しかも、秋の夜長にふさわしい音楽の存在に気づくのが冬だったりして。「来年の秋には、これ聴こうな」なんて自分に言い聞かすのだけれども、次の秋にはすっかり忘れて過ごしてしまう。 さて、秋の夜長に聴くべきが本作。88年のリリース。趣味の良いソングライティングとギターのコードを活かした演奏アダルトにして微弱に青臭い。ビートルズやゾンビーズと直結したかのような音楽センスは甘酸っぱくてほろ苦い。一枚一枚散っていく枯葉を見つめながら聴くのに最適。まぁ、そんなシチュエーションで音楽を聴いた試しは無いんだけどな。 リリース当時に初めて聴いて以来、秋の夜長に聴く音楽として指定されていた本作ではあるが、実のところ、秋に聴いたのは今年が初めてのような気がする。2004年の秋があまりにも短くて影が薄いがゆえに、「秋の夜長音楽」への切望感が浮上した結果なのだろうな。 5曲目の『Especially For You』で泣きながら、秋の夜長を!
〜音楽が聴こえる 4〜



★★★★(2004.11.08)
『砂の器/監督:野村芳太郎』 音楽が最大限の効果を発揮した名画とは、『砂の器』のことを言うのだろう。 (本作のように)登場人物が音楽家であるという必然さえも、音楽表現に失敗して型どおりになってしまう事例などは数え切れない。ま、言っちゃなんだが、「ロックをテーマとした映画」に失敗事例は多い気がする。演奏シーンとシンクロした音楽が流れる場面はさながらビデオクリップ。劇がそこで中断する。いや、中断するのは別にかまわないけれども、演奏シーンは演奏シーンと認識されてしまうから映画の場面として印象に残らないのな。 一方、BGMが場面とリンクされて記憶に残る名画というのも数え切れない。『第三の男』『太陽がいっぱい』などは力のある音楽と力のある映像が融合して化学変化をおこす。その場合、メロディが染み込み易いシンプルなものが好ましい。記憶に残ったメロディが映画のシーンをフラッシュバックさせるのね。音楽には記憶の鍵になる力がある。 『砂の器』のクライマックスでは長い交響曲に乗せ、いくつかのドラマがパラレルに進行する。ピアノのイントロに続きストリングスが切り込む瞬間に映像はハンセン氏病の親と子の巡礼場面に切り替わり、壮大な自然の中を漂うように流れ続ける親子の焦燥や絶望を音楽が見事に増幅する。警視庁の捜査会議で事件の真相を淡々と報告する刑事の言葉以外に台詞は無い。映像と音楽の中に全ての真実が在る。巡礼親子の“子である演奏家”は華やかなスポットライトの下でピアノを弾き続け、巡礼の風景とは時間も空間も断絶されている。この断絶が無言のまま一本の糸に結晶していくあらましは何度見ても僕を謙虚にさせてくれる。途中中断した音楽が無心に砂の器を作り続ける子の姿とともに再開され、ドラマが一層の悲劇に加速するといった演出も素晴らしい。登場人物と一緒に大声で泣きたい場面でも台詞は無く、客観的な視点を強制されているにも関わらず僕の心は濡れる。 テーマ曲『宿命(作曲:管野光亮)』の主旋律を思い出すだけで反射的に泣きそうになってしまうが、この楽曲は映像とともにフルバージョンで観て聴くべきだ。

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