〜名盤山脈
31〜

★★★★☆(2004.11.15)
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『SHAHBAAZ/ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン』 90年のワールドミュージックブームの最大の収穫が本作だったと個人的に思う。パキスタンの宗教音楽カッワーリは手風琴(アコーディオン風の楽器)・タブラ・手拍子をバックに、リードシンガーと彼を取り巻くように車座に座ったバックメンバー十数名がユニゾンやコール&レスポンスで展開する音楽。西洋音階とは明らかにルーツの異なる不思議なメロディは実のところポップで、宗教的背景とは別な次元で楽しめる。ヌスラットは「カッワーリの帝王」なのであって、当然リードシンガー。ゆったりしたビートのループの中で感情的な高ぶりを実に音楽的に表現する天才。感極まったように張り上げる声が、ジャズのアドリブのように決まる瞬間には鳥肌が立つ思いだ。太く張り上げた人間の声がまるで熟練した奏者の奏でるサキソフォンのように正確に機能する。しかも、非西洋音楽の文脈の中で! 気が乱れてどうしようもない時、僕は本作に手を伸ばす。焦りだったり、不安だったり、嫉妬だったり、みみっちい怒りだったり、僕はそんなことでついつい感情的になってしまう。そして、そんな感情的な自分をいつも受け入れてしまう。怒っていることが実は嫌いではないんだね。しかし、いかに自分が心地よくとも、感情的な自分は他者と軋轢を起こし、時にそれは取り返しのつかないものとなる。自分の怒りモードを鎮静させたい時(それは、もうとっくに治癒の第一歩を踏み出している瞬間なのだろうけれども)、僕には本作の51分32秒が有効。特に自分の感情を反省するわけではない。ヌスラットと真摯に向かい合い、やがてヌスラットに抱きしめられる時間。楽な姿勢(僕は仰向けに寝ますけどね)になって、ヘッドフォンを被り、何も考えずに音楽に浸るのがいい。音楽を聴く時に感情的にモノを考え、音楽が耳に入らないと言う人がいるけれども、一音も聴きのがさないように音に集中すればよい。このディスクで言えば、タブラか手拍子だけを追っていればよい。 ヌスラットは何枚か純正カッワーリを聴いたけれども僕には本作が一番効果のある治癒剤だった。
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〜ワールドサイド
を歩け!! 38〜

★★★☆(2004.11.15)
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『Vird Karo Allah Allah/Ustad
Nusrat Fateh Ali Khan Vol30』 ヌスラットの課外授業的な音楽活動。西洋圏の音楽スタイルで作られたバックトラックにヌスラットの声がパキスタンマナーで乗る、というお手盛りな企画色の強いサービス音楽。ま、良く言えばミクスチャー。打ち込みやサンプラー主体のダンス音楽的なバックトラックが基本で、このコンビネーションがバングラ・ビーツに発展した(と僕は思っているのですが、実はヌスラットがバングラ・ビーツに便乗したのかも…)。 90年前後のワールドミュージックブームの渦中、ワールド系に熱心だったCDショップ(特に六本木WAVE!)にはおびただしい量のヌスラット音楽が在った。棚一列がヌスラットだったなぁ。(フランク・ザッパみたいに!) 純正カッワーリの数に負けず劣らずミクスチャー盤も多かった。ミクスチャー盤の中にはバックトラックが御機嫌な名盤もあったわけなのだが、僕はバックトラックがチープでしょぼい本作をおす。 本作のバックトラックは言ってしまえば、オールインワンシンセ(例えば当時のKORG
K−1とか)でコピー&ペーストを多用して作っちまったレベルのもの。ファクトリーデータそのままのサンプル音源が鳴り響くんだわ。全てのアドバンテージをヌスラットの歌に求めている、っつう感じ。しかし、本作には6曲目の『MENOO
TERI DEEWANI WE WARIS LUDHYANVI』(タイトルを正確に書いてもほとんど意味が無いっスね…)が収録されている!
いつものカッワーリマナーとはかけ離れた優しく落ち着いたボーカル表現が実に素晴らしい。こういう楽曲こそ、歌の上手さが表面化するわけですね。北島三郎が『与作』を歌った時の息の抜き方の絶技みたいな(あ、そうそう、この楽曲をサブちゃんが歌ったら、ヌスラットとは別の名曲になると確信!)。この楽曲を聴くたびに、声の穏やかさとは裏腹に一瞬にして強引に僕の心は支配されてしまう。優しさが獰猛に襲い掛かる、っつう感じ? あぁ、最近、優しい歌を聴いてねぇなぁ、などとついつい受身で嘆くけど、こんな音楽がいつも部屋にあってくれることはつくづく幸福なことだ。
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〜名盤山脈 32〜

★★★(2004.11.22)
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『ハッシュ(Shade Of Deep Purple)/ディープ・パープル』 TV−CFで日常的に耳にする洋楽。なかなかにツボを狙った憎い選曲で、初めてテレビで聴いた瞬間には「おっ!」なんて膝を乗り出すし、頭にこびりついてついつい鼻歌に出てしまう。『キラー・クイーン』が終わったと思ったら『ふたりのシーズン』が来たりなんかして、個人的には幸福。そして、『ハッシュ』もいいなぁ。僕、昔からこの曲が好きでさぁ。サイケデリックだよね。なにしろ「♪ナ〜ナナ〜ナ〜♪」というテーマ部が好きで、イアン・ギラン時代の某ライブ盤も『ハッシュ』が収録されているという理由だけで好きだった。CMで流れる『ハッシュ』に誘われて本作を引っ張り出したわけなのだけど、このアルバムいいね! グシャッとしてモヤ〜ッとしたサウンドが実に「気分」ですな。オルガンが小刻みに刻むリズムや、跳ねながら暴れるベースが中域以下の帯域にドヨ〜ンと沈殿してる。これ、気だるい。「もう、なんでもいいや」ってな気分になる。「理想のアンサンブル」とは敢えて思わないけれども、オルガンとベースのコンビネーション、すごく好き。テクニックとかいう次元でなくもっと評価されていいベースだと思うよ。相変わらずスネア&タム回しとシンバルが騒々しいドラムスも靄(もや)の向こうでノイズ成分のように聞こえてくる。全体がドカドカしてるから気にならないのな。リードギターのパートでも、他の楽器が微塵も引かないのも楽しい。後々のこのバンドに導入される規律なんぞ糞食らえって感じで手数も音量もけたたましい。ボーカルのバックでも爆発しっぱなしだもんな。とは言うものの、コンパクトにまとめられた「歌もの」以外の要素は僕にはトゥーマッチ。元来、長々しいインプロビゼーションとかありがたくない方なので…。そんなわけで『Hush』『One
More Rainy Day』(パパパコーラス!)『Love
Help Me』がすっごく好き。ありゃりゃ、つくづく「ポップ人間」だね、僕…。 それにしてもどの曲も冒頭で思わせぶりなSE演出があったり、これ見よがしなユニゾンの決めがある。こういうの、鼻につく。ポップ人間だから…。 関連(1) |
〜歌謡曲を聴く80〜

★☆(2004.11.22)
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『東京27時(TOKYO 27:00)/弘田三枝子(MICO)』 1999年リリース。ナウでエレガントなクリエーターが「忘れ去られた逸材」を料理して、お洒落でスイートでゴージャスで、素材の古ささえもがテイスティーでトレビアンな企画盤。そうだったね、こーいう企画盤が多かったよね、あの頃。案の定、小西康陽・コモエスタ八重樫・寺田創一等の名前がクレジットされている。弘田三枝子もやる気満々でシャウトかますし、ジャケットデザインもおっ洒落〜。 リリース当時、漫然と納得していたディスクだったにも関わらず、時間を隔てて聴くと印象が変わった。 古い素材を新鋭のクリエーターが料理する企画って、毎度同じフィニッシュをしちゃうのな。時代の空気を除外して味わう「モード型音楽」は、実のところ味付けが変わっていない実情を絶望的に実感してしまう。ピチカート・ファイブのボーカルが差し換わった音楽にしか聴こえないんだもん。あ、当時もそうだったよ、そうだったとも!
でもさぁ、ピチカート・ブランドがもっと連鎖の中で機能していたじゃんか。アレが在って、コレが在って、「ピチカートな世界」完成、みたいな風を浴びていたじゃんか、僕等は確かに!
一旦、風が止んでしまうと体感しているものの意味が激変。 小西康陽が何十年もかけて完成させ、今も継ぎ足しながら増産している秘伝のソースがあって、こいつは魚にも肉にも野菜にもマッチする魔法のソースなのだけれども、実は「同じ味に着地する」という禁断のソースだった(化学調味料かっ!?)。そうなると、浮かばれないのは素材だ。生で食っても美味い肉にスペシャルソースをゴッテリと合わせられてしまい、ソースの味の方が鮮烈なんだもの。「あ〜、魚を注文してもよかったかも…」なんて思ってしまう。そうそう、集中力を乱すんだよね。こっちは類似した味覚を記憶に持っているわけだからさ。まぁ、新鋭のクリエーターとコラボレートすることで、「古い素材」は一時的にスポットを浴びるわけだから、決して損な話ではないのだろう。でもなぁ…。弘田三枝子のファンとして言い切るけど、この料理は素材に対する敬意が足りんよっ! |
〜Drive
to 80's Vol.58〜

★★★(2004.11.29)
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『Play Time(リアル・タイム)/トット・テイラー』 料理を美味そうに食わない人間は好きになれない。尊敬できない、と言ってもいい。他者が作ってくれた料理であるならばなおさらだ。それは外食であろうとも。 「味わう」といよりも「腹につめる」という行為に没頭している人間って、不機嫌そうで威張った印象があるのね。例え、その人物が小心者で腰低く振舞う人間であっても、そんな姿を見たら僕は印象を変えるね。実際に変えた事実は多いね。 腹に詰め込むためだけではない料理を自分で作ってみればわかるが、料理には細かくて面倒くさい段取りが複雑にあるし、独自の工夫も当然ある。例えば、カレーを作る際にどんな隠し味を仕込むかという問題がある。醤油やトマトケチャップやウスターソースやフルーツジュースを前に僕は「うふ、うふふ」とほくそえむ。そして、その結果は良くも悪くも結果に反映する。上出来のカレーを味わうことなく腹に詰め込まれたら…、僕は黙っている気はないぜ。料理人が味の向上のために料理に工夫を施すことが「良い仕事」であるならば、その料理を食べる人間はその工夫に満足する(或いは正しく満足しない)ことこそが「良い仕事」だ。 一方、同席したグルメ派が「こりゃ見事なダシですねぇ。う〜ん、煮干…、鰹節…、スープに野菜もあるなぁ。玉葱、人参…」なんて上目遣いで語り始めた日にゃぁ、そんな食い方で味を楽しめるもんか、と反発を感じてしまう。そうじゃなくてさぁ、もっと、料理自体を平凡に楽しむセンスっつうかさぁ。平凡だけど、感謝できるって言うかさぁ。 トット・テイラーの音楽を聴くとそんなことを連想する。見栄えは一見して普通の料理なんだが、非常に木目細かい工夫があって、食べる人間へのもてなしは愛情に満ちている。腹に詰め込むためだけのリスニングでは、薄味の地味な料理。しかも、ボリュームは少なめ。丁寧なお味噌汁+ご飯+キンピラ、みたいな。他にもニック・ロウやジョー・ジャクソンなんかも、似たタイプの料理人だと思う。どのタイプも感謝しながら味わえるのだが、グルメ派が上目遣いを始めちゃう音楽でもあるよな。 |
〜BGMの調べ
7〜

★★☆(2004.11.29)
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『恋は水色〜スタンダード・ベスト/ポール・モーリア』 これは昔々大昔の思い出だ。 高校時代にバンドをやっていた先輩がこんなアイディアを語ったの。ま、高校生にありがちな洋楽ハードロックのコピーをやっていた人なのだけど、とある有名ハードロック曲の間奏リードギターが終わった瞬間にブレイクして『エーゲ海の真珠』のコーラス(♪ラ〜ラララ〜♪)を挿入しよう、と。胡坐の姿勢でアンプを通さないギターを抱えた彼は実際にその流れを歌いながら弾いてみせた。感激したさぁ! ハードロックのライブを聴くと有名古典曲がさらっと挿入されることが多いけど、あーいうのを独自のアイディアで組み合わせちゃってもいいんだぁ、なんて。しかも、ポール・モーリアなんかどこで思いついたんだよ。その後、僕等は競い合って「別楽曲の挿入ネタ」を考えまくったけれど、『エーゲ海〜』以上の切れ味は無かったな。かっちょいいハードロック曲(今はそう思わないけど、当時はかっちょいいと感じた)に、ちょっとダサいラインの楽曲を合わせる。「ダサい」ってのは「ロックとは程遠い」って意味で、ね。 そんな経験以来、それまで毛嫌いしていたポール・モーリアが好きになってしまった。ポール・モーリアはイージー・リスニングの巨匠なのであって、甘ったるいオーケストラサウンドで有名曲をアレンジして聴かせる。そう、昔の喫茶店のBGM。下町のうらびれた商店街のBGMってのもあるね。本作を通しで聴くと最初の数曲は一音一音に耳が行くけれども、そのうちに考え事に没頭したりしちゃう。ヘッドフォンをしていてさえも無音状態のようにサウンドが背景になってしまう。しかし、『エーゲ海〜』を単体で集中して聴いてみよう。BGMに成り下がる前に曲は終わるからさ。オーケストラにドラムス+電気ベース+電気ギター+オルガンというロックテイストを導入し、これまたロックテイストの8ビートで仕上げたっつうアイディアは実を言って途轍もない発明だったんじゃなかろか?
コロンブスの卵みたいな。 ハードロック+『エーゲ海〜』のアイディアは結局実現しなかったので、誰かどうぞ! |
〜ワールドサイド
を歩け!! 39〜

★★★★(2004.12.06)
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『ハーディ・ガーディ・マン(the hurdy gurdy
man)/ドノヴァン』 ドラマ『古畑任三郎』の中にこんな表現があった。犯人である将棋の名人(八段)の台詞。正確ではないが、こんな主旨だ。 「負けて当然。勝って偶然。」
何故なら将棋において最も隙の無い布陣は“最初に駒をならべた状態”なのであって、一手差すたびにその布陣は崩れ、隙が生じる。従って「負けて当然。勝って偶然。」、と。 う〜む、なるほど! これを人生に当てはめてみる。生まれたばかりの赤ちゃんが最も汚れていない完全な状態であり、次の瞬間から汚れ始め、それは「弱さ=隙」を派生させる要因となる。成長にしたがって汚れ、弱さは増し、しかし、自分を襲う外からの厄介事も増す。そして、それは誰もが避けられない人間の宿命。生まれたての赤ちゃんに戻って、その状態をキープし続けることは不可能だ。 ただ、こういう現実的な話を冷徹に知たり顔で語られたりしたら、ウザい。知たり顔がウザいのと、そこに微弱なニヒリズムが漂うことに嫌悪感がある。「しかしながら、棋士は将棋を差す」のと同じように「しかしながら、人間は成長する」ということを諦観でなく、前向きに決意する為の逸話であるべきだ。まぁ、先の発言に対する古畑の対応は「んふふふ、まったく大変ですぅ」ってな調子ではあったんだが…。 生まれたこと、またはその後に成長してしまったことを悔やんだり恨んだりする人生は不幸だ。出来ることならば、出生や成長に感謝しながら生きていたい。僕が音楽を聴きながら「生まれて、生きていること」をありがたいと思ったレアな例が本作。ドノヴァンはその風貌から、赤ちゃんのピュアネスをキープし続けている人間とイメージしてしまうのだけれども、本作からは人生と真摯に向かい合った軌跡が伺える(それが、マハリシというフィルターを介して、だとしても…)。英国トラッドやインド音楽をベースにしていると思われる楽曲群は無国籍な大地のイメージを喚起する。しかし、それはネヴァーランドではなく、ほろ苦さに満ちた大地で、その大地の住人達が優しく讃えられている。 ところで、赤ちゃんには汚れは無いけど、奥行きも無いんだよな。 |
〜名盤山脈 33〜

★★☆(2004.12.06)
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『FIELDS/フィールズ』 フィールズはメンバーの関連作品や関連バンドが複雑に多すぎてクラクラする。僕は元来、ファミリートゥリーを眺めたりすることが趣味ではない。面倒臭いんだもん。しかも、キング・クリムズンが絡んでくるとなると話は更にややこしい。昔からイエスとかクリムズンの関連作品を丹念に収集している人っているでしょ?
ほんのちょっぴり参加した音楽家の関連作品まで集めちゃうの。あれ、70年代の時点でさえ考えただけで気が遠くなったなぁ。だって、「ほんのちょっぴり参加しちゃった音楽家」が異常に多いじゃん、クリムズンって。今は時間が経過した分だけタイトル数も無闇に増えてしまった上に、リック・ウェイクマンがめちゃくちゃにリリース量を増やしてしまっているって言うじゃん。そのリリース量は「月刊ウェイクマン」って噂を聞いたぜぇ。 クリムズンのファミリートゥリーからフィールズに辿り着いたリスナーにとって、本作ってどんなもんよ?
楽曲によっては小刻みなスネアロールが僕には耳障り。ダララララダララダラ…って感じで、基本リズムが感じにくいんだ。案外とこのスネアロールだけがクリムズン派の安心材料だったりしてね。「お。クリムズン風だ!」なんて胸を撫で下ろしたりしてね。 ところが、本作ではドラムが鳴っていない楽曲もあったりなんかして、なかなかクリムズン派に満足感を与えてはくれないような気がして僕は不安になってしまう。余計なお世話かね?(だね!) オルガンが大仰なところはプログレっぽいのだけれども、本作収録の楽曲群は基本的に端整なメロディ&ボーカルとポップな味わいが魅力。なんでも、フィールズはマンフレッド・マンやサンダークラップ・ニューマンにも関連しているみたいよ(僕にとってはそんなセンスが買い)。プログレとポップロックの中道的な音楽。どっちつかずではある。 昔ラジオで聴いて頭にこびりついてしまった『ぼくの友だち(A
FREND OF MINE)』という楽曲目当てで購入した本作。どうしても、この楽曲ばかりをリピートしてしまう。 しかし、関連作品に手は伸びない。 |
〜名盤山脈 34〜

★★★(2004.12.13)
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『イースト・サイド・ストーリー(EAST SIDE
STORY)/スクィーズ』 恋は素晴らしい。脳裏に理想を描いて素晴らしく、それだけで僕等を虜にしてしまう。理想を思い描く行為(=空想)だけで、恋を完結してしまう人間さえもいるほどに素晴らしい。しかし、恋を実現することは、空想の数百倍も素晴らしい。しかし、その素晴らしさは理想として描いた風景とは往々にして違う。空想の中では、僕の期待通りに芝居をしてくれたはずの恋人が現実では期待外れに存在してしまう。会話の行方は予測できないし、感情も予測を超えて揺れる。当たり前だ。互いに劣悪な状態を晒し合うこと、これが現実の恋。そして、その劣悪さや期待外れにむしろ愛着すること、それが恋。空想の中では味わえない人肌の温もりがそこに存在すること、それが恋。恋を空想から解放しない人間は未熟だ。 スクイーズの『Is
That Love』が好きだ。この1曲で僕はスクイーズに恋をした。アップビートでエッジの利いたパンク風アレンジではあるが、メロディやコード進行やハーモニーの構造がビートルズ風味。特にメジャーとマイナーを目まぐるしく行き来するコード展開の過激さと、そのことに起因する複雑な構成が特徴なのだけれども、聴くたびにそのことを忘れてしまうほどにポップ。来日公演では、間奏の“故意に下手なリードギター”も含め、最高の演奏を聴かせてくれた。歌詞に登場するのは破局の影が忍び寄る気配に包まれた二人。主人公は恋人の行為をあげつらっては「それが愛なのか?」と疑問を投げつける。恋人の行動は愛が冷めた状況を裏付けるし、主人公の着眼点も感情的だ。蜜月期には、おそらく、愛情に満ちた着眼で恋人の行為を列挙していたのだということを予想させる。そして、恋人も愛情に満ちた振る舞いをしていたのだろう。いや、もしかしたら、蜜月期と破局期の恋人の行為は同じものなのかも知れない。主人公の着眼の姿勢が変わっただけなのかも知れず、彼は自分の感情の変化に対して「それが愛かよ?」と憤っているのかも知れない。 悲しく辛い破局に至る恋はこの世に五万とあるが、それでも恋は素晴らしい。実現せよ。 「実現することが恋?」 そうとも! |
〜歌謡曲を聴く81〜

★★★(2004.12.13)
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『休みの国/休みの国』 真崎守の『はみだし野郎の伝説』が素敵だ。1969年連載の漫画。「戦後」の終焉期であり、「若者」という人種が文化の中心存在として定着する為の人権宣言に励む時代の漫画。そう、「例の時代」だから、熱くて冷めている。悲しくて愚かしくて生命力があったりなかったりする登場人物のエピソードが、光景として、思想として、風俗として、愛着として、批判として、風刺として描かれている。都会と地方が渾然となりながらも確実な相反を成すジレンマや、学生運動と麻雀が隣り合わせに存在する実態など、漫画を通すとその時代の空気が追体験できる。特にこの漫画は当時の流行歌と物語を関連付けているので空気感は抜群。読み始めには時代的ギャップを感じ、気持ち悪いかも知れないね。でも、その違和感がすなわち69年という時代の空気感だ。 「休みの国」は高橋照幸(通称カイゾク)を中心としたフォークロックのユニット。本作の発売は1969年。僕が初めて聴いた時の動機はジャックスのメンバーが演奏しているといった情報で、友人からカセットテープをもらったんだった。水橋春夫不在の第二期ジャックスの演奏がソツなく聴こえ、面白くもつまらなくもない「普通のフォークアルバム」と感じ、あまり馴染まなかった。高橋のボーカルは線が細く、音程も悪く、聴き苦しいと感じたっけ。 20年ぶりぐらいで聴いた本作の印象はまるで違う。ジャックスの演奏は危うい。ソツなく聴こえる演奏も、隙あらば暗黒に逃げ込もうとしているかのように、その指差すベクトルに緊張感が匂い立つ。そしてボーカルは線が細く音程が悪いが故に、そのメロディや歌詞が持つ本質に切実さが伴うことに気づいた。「本質」とは政治的なアジテーションよりも、アジテーションに至る「時代の空気」と、その時代に生きる「生活」という意味だ。音楽的には頭脳警察に近い質感があるが、生活感という意味では休みの国の方が等身大の印象を受ける。 1969年を追体験する意味など、2004年の暮れに必要無いよね。でも、『はみだし野郎の伝説』と『休みの国』の未来に僕等は立っているんだぜ。 |