〜グレイテストな
ベスト 20〜

★★★☆(2005.04.11)
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『20センチュリー・ボーイ(20th century boy)/T.レックス(T.REX)』 「お店のおねえちゃん」に惚れた、なんていう話があるでしょ? 「お店のおねえちゃん」 アナタが喚起したイメージは、性風俗嬢やキャバクラ嬢? それとも、そうだなぁ、例えば小さな本屋さんか何かでエプロンかけてレジとか整理をしているアルバイトのおねえさん? 上の2つの例では、思い浮かぶ女性の印象も違うし、惚れてしまった男のムードや動機も異なるように思える。そして、「状況」が決定的に違う。前者はおねえちゃんと密着した接客を受けるわけで、会話の機会は多いわけですね。しかも、目の前には「架空の恋愛態勢」みたいなものがボンヤリと浮かんでいる。それが商品だからね。一方、後者が売っている商品は「本」なのであって、接客も「これ、ください」「ありがとうございました」程度の短い会話でしか成立しない。「貴女の御趣味は?」なんて質問するのはおねえちゃんに迷惑だ。 『レコスケくん』には、CDショップのレジのおねえさんにアプローチするエピソードがあったが、僕も中古CD屋のオネエサンに惚れたことがある。ぶっきらぼうで冷めた目をしたオネエサンだった。僕は学生で、毎日が暇だったから毎日その店に通ったが、ディスクを買っても型通りに客としての会話しかできなかった。苛立つ。僕は比較的、誰にでも馴れ馴れしく声をかけ、図々しく会話に持ち込むことができるタイプだが、「店員と客」という図式をはみ出すことは難しかった。 オネエサンはいつもBGMにTレックスを流し、店内にマーク・ボランの特大ポスターが張ってあった。 同じ時期、パンク仲間の中でTレックスは評判が高かったが、それはボランが若死にしたことで英雄視されているのではないかと僕は勘ぐっていた。だってさ、短い楽曲がジャカジャカと演奏されるエレクトリックパターンにパンクとの共通点を見出す解釈ばかりで、アコースティックの沈殿したムードにパンクの「種」を指摘する声なんて無かったんだもの。 そうかっ! 「『デボラ』と『Get
It On』はどっちが好き?」という質問をきっかけにオネエサンとその件について話し合うという手があったのか! いや、そんな客ってオネエサンには迷惑だよな…。
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〜名盤山脈
41〜

★★★★(2005.04.11)
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『ザ・スライダー(THE SLIDER)/T-レックス(T-REX)』 僕が洋楽を聴き始めてから、「最初に死んだアーティスト」がマーク・ボランだった。 そのニュースを知った僕が深く悲しんだのか、冷静だったのか、記憶にない。まぁ、つまりは僕にとって大きな事件ではなかったということか…。ただ、追悼の意味で本作を聴き返し、最終曲の『メインマン』に初めて感動したことだけはハッキリと覚えている。ロックスターという虚像を必死で演じている最中のボランの深い溜息のような楽曲。仮面の下の目は虚ろだ。 歌謡曲のアイドルのグラビアで誌面を埋める月刊芸能誌にさえ、マーク・ボランの写真が掲載されている時代があった。不自然で人工的なコスチュームでポーズをとるボランを僕はファッションモデルなのだろうと思い込んでいた。写真が並列されていたデヴィッド・ボウイもモデルだと思っていた。「洋楽」というボキャブラリーを受け入れるキャパシティが僕には無く、トンチンカンな発想で事態を強引に整理してしまったわけだ。この人達の仕事は写真に写ることなのだ、と。また、ラジオで聴いた『イージーアクション』は子供の僕の耳にもゴキゲンだったけれども、Tレックスの楽曲だったと知ったのは10年後だった。断片で飛び込んでくる情報がうまいことリンクされずに、Tレックスもボランも僕の中で実像を結んではくれなかったのね。 「実像を結ばない」って、なんだか、マーク・ボランの本質みたいな気がしてきた。『メインマン』とは、実像に行き着かない(行き着くことを拒んでいる)自身の姿勢に対する嘆息なのではないか? 本作はどうせ『メタルグルー』が目的で購入したのだと思うけれども、アコースティック比率の高さやスローな楽曲の多さに最初はガッカリした記憶がある。ジャケット写真も象徴的に淡い。ギンギラしていない。フォーカスが甘いと言うのか、ピントが合っていない。そう、実像が結ばれていない。今となっては、撮影者のリンゴ・スターはボランの真実を理解していたように思える。 歌詞の内容は深刻ではないけど、本作は『マーク・ボランの魂』と呼ぶべきボランの叫びなのかも知れない。フニャフニャした叫びがボランらしいね。 『スペースボール・リコシェット』、たまらなく好きです。 |
〜歌謡曲を聴く87〜

★★★(2005.04.18)
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『ベルウッド・シングルズI/V.A.』 70年代のフォークにシビれるモードが僕にはある。そのモードは唐突に訪れ、何枚かのCDを引っ張り出して聴けば、大概は満足してモード期間はフェードアウトする。そんなモードが年に3回ほどやってくるのだが、モードの最中に引っ張り出すCDは固定していない。定番が無い、っつうか。しかし、確実に避けているCDはあるような気がする。かぐや姫とかアリスやNSPとかは聴かない。チューリップやガロも違う。ビリーバンバンはフォークじゃないような気がする。さだまさしは所有していないが、やはり、このモードで聴くことはできないだろう。僕の場合、70年前後のフォークにはリスナーとしてタイミング的に合致していないので、懐かしさとか回想みたいな基準でCDを選んではいない。定番は存在しないのに、何故か選択基準はある。当時の生活や風俗が描かれ、「音楽的に洗練されていない楽曲」はモードにフィットするんだな。高田渡なんかジャストフィットだ。12小節ぐらいのメロディがしつこくリピートされ(5〜6コーラスもあるの!)、演奏は生ギターのアルペジオのみ、なんつう非洗練型音楽は特定の時代にしか存在しないものね。嫌でも70年代フォークモードにフィット。一方、フォークルが12弦ギターの響きだけで世界を拡大しようとしているセンスもフィット。フォークルがフィットするとなると、貧乏臭さとか非洗練だけがキーワードではないことになる そして、本作。 ベルウッドレーベルのオムニバス。あがた森魚、蜂蜜ぱい、ザ・ディランU、六文銭ファミリー(小室等、及川恒平、上條恒彦)など。これが、セーフなんだね。僕のモードとのフィット感に対する僕の一方的な評価に「セーフ」も「アウト」も無いかも知れないんだけど、これセーフですよ。決してギター一本のアンサンブルっつう楽曲群ではない。むしろ、かすかな洗練さえ感じる。アーティストには貧乏くささが漂っているけどね…。 あ、そうか!(膝を打つ) 音楽の向こうに個人が見えるか否かが「セーフ」と「アウト」の基準なのかも! 「音楽」よりも「個人」と出会いたくなることが、僕の70年代フォークモードなのかも! |
〜名盤山脈 42〜

★★★☆(2005.04.18)
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『ドラムス&ワイアーズ(Drums And Wires)/XTC』 一曲目の『メイキング・プランズ・フォー・ナイジェル』が、変革を告げるファンファーレだったと思う。ジャケットデザインの鮮烈さとともに、この楽曲が切り開いた。 「切り開かれたもの」が何だったのかと言えば、それは「パンクの硬直状態」だったようにも思う。切り込み隊長であったはずのパンクが自ら飽和してしまったものだから、パンク以前のロックのようにパンク自体が「安全な商品」になりつつあった硬直状態。 『ナイジェル』のイントロのドラムサウンド。これだけで充分すぎるくらいの破壊力。以下、鋭角的なギターのサウンドを伴いながらも、スネアが爆音をあげ続ける。本作のサウンドプロデューサーであるスティーブ・リリー・ホワイトの偉業ですね。 「ゲートリヴァーブ」 あぁ、何度聞いても素敵な響きの言葉だ。 ドラムスの録音にリヴァーブをたっぷり仕込み、ノイズゲートで残響をカットする。リヴァーブで膨らんで音量を備えたアタックが残響音に埋没することなくインパクトを持つっつう革命的手法。僕は、リズムマシンとコンパクトエフェクターを組み合わせて、ゲートリヴァーブを擬似的に作り出す実験を何度も繰り返したっけなぁ。 もっとも、ゲートリヴァーブの完成はピーター・ガブリエルの3枚目であるわけだから、先行した本作は「手慣らし」というか実験段階とも言える。 それにしても、僕が戸惑うのは、「ゲートリヴァーブ」という甘美な記憶と、2005年の今ここで鳴っている音のギャップだ。全然「普通のサウンド」じゃねぇか!
なにが「爆音」だよ! よくもまぁ、俺達はこんなサウンドに驚けたもんだよな。このサウンドが過激だと心底から感じていたなんてな…。 発売当時の本作に加味されていた付加価値は今や価値ではなくなってしまったわけなのだけれども、今の耳にも本作の楽曲は素晴らしい。メンバーチェンジによるサウンド方針の変更が「暗いベクトル」になってしまう事例の多かった時代に、XTCは実にポジティヴなベクトルを提示したと思う。最初の2枚の大ファンだった僕は躊躇無くニュースタイルを歓迎し、XTCと一緒に次のステージに進んだ。本作の後にすごい作品が連発される為、ないがしろにされやすい本作だけれども、『ラバーソウル』みたいな名盤だと僕は思う。
関連(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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〜Drive
to 80's Vol.62〜

★★★☆(2005.04.25)
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『ペイル・フェイス(Pale Face)/スティル(STILL)』 インディーズブーム真っ只中の時代に、サウンドの良さで話題だったディスク。歌謡曲的テイストなんていう評価もあったように記憶する。 プロデューサーは恒松正敏(ツネマツマサトシ1・2)。なるほど、ドラムサウンドはEDPSに近い感触だ。シングルとミニアルバムが2イン1になったアルバムであり、メンバーが入れ替わっているにも関わらず前者と後者にサウンドの差が少ないあたりは恒松の手腕と言うか、彼がしつらえた「サウンドの指向性」みたいなものが機能していたのだろう。後者の方がメンバーの演奏テクニックが明らかに上でソングライティングの質も向上しているが、バンドが向かうベクトルにブレは無い。メディアは「サイケデリックなギター」という表現を好んでいたようだが、北欧系ニューウェーブサウンドとでも言うべき「冷え冷えとしたサウンド」がユニークな存在だった。 スティルのライブバンドとしての演奏力は評判が高かった(アナログでリリースされた際のライブ音源のソノシートは収録して欲しかった!)。リードベースとも言うべき、ベース(クレジットはベースギター!)の存在感が実に面白い。ゲスト的な意味合いも含め、スティルに参加したプレイヤーの顔ぶれもハンパじゃない。JAGATARAのテイユー、EDPSのBOY、P−MODELの荒木康弘という強力なドラマー3名が参加していたし、御大・恒松がギターを弾いたライブもあった。後期スティルに元ちとせのプロデューサーでお馴染みの間宮工がギタリストとして参加していた事実は特筆すべきだろう。 つまりは、インディーズブームの中にあってスティルは「業界寄り」のポジションに立っていたと言える。大物プレイヤーがバンドに参加し、大きなライブハウスイベントに出演し、本作のような音の良いディスクを制作するバックボーンがスティルにはあったに違いない。第一、本作がCD化された際のリリース元はWAXであるからして…。 80年代のインディーズを振り返る記述の中にスティルの名前が出てこない状況が勿体無くも寂しい。本作以降のポップな展開も評価が高かったが、結局は「業界寄り」のポジション故に自滅したという悲劇か。 『Sweet
Warm Rain』はJAPAN的テイストの名曲。(男コーラスの声がデヴィッド・シルビアンに似てるんだよね) |
〜グレイテストな
ベスト 21〜

★★★☆(2005.04.25)
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『グレイテスト(GREATEST)/ゴーゴーズ(GO−GO'S)』 春は良い。 陽気は心地よく、節目の季節でもある。特に僕は3月生まれの牡羊座なので、節目の季節としての気分は自分勝手に高く、不思議と春に節目となる出来事が多い。それに、春は正月から3〜4ヶ月経過している状況なわけで、「今年も4ヶ月経っちゃったねぇ」などと言いつつも、あと8ヶ月で挽回できるという余裕が漂う。これが秋だとそうはいかない。 ついでに秋と春を対比させてみよう。次に待っている季節が冬か夏。この差は大きい。あ、いや、冬が大好きな人にとっては秋の方がワクワクするだろうし、僕が夏を好きで好きでしょうがないってわけでもない。しかし、初夏には何故か無性にときめく。それは四季を持つ日本人のDNAの成せる業なのだろう。初夏にときめくプログラムになっているとしか言いようがない。 言ってみれば、春から初夏は第2のお正月。2005年初の仕切り直しをするなら、今!
自分の背中を自分で押せ! ってなわけで、春から初夏には「足が勢いよく前に出てしまう音楽」が聴きたいですね。じゃあ、ゴーゴーズを聴け! まずドラムスがいいよね。2拍4拍を律儀に刻む8ビートが、やや大きめにミックスされていて、ハイハットがシャンシャンと涼やか。個性があるような無いようなボーカルの声がポップなメロディを的確に伝えてくれる。感情の機微を深く表現するというよりは、サウンドに溶け込む声。他のバンドで歌って欲しいなどとは決して思わない声で、ゴーゴーズのサウンドはこの声の為にあるのだという気さえしてしまう。短調の楽曲でも妙にカラッとしている。また、コーラスも細い声を直線的に投げかけているようで快適。そして可愛い。あぁ、ゴーゴーズは自分達の可愛さを自覚して音楽を作っているよね。ギターとか時にハードなのだけど、メロディと声が可愛さに踏みとどまるの。 コードの上昇に合わせてメロディが上昇するなどのソングライティングが、今の耳にはニューウェーヴ的。リリース当時は、もっと一般的なポップスに聴こえていたはずなのにな…。 ニューウェーヴ真っ只中の時代にも僕はゴーゴーズを春に聴いていたのだと思う。しかし、意図的に初夏に聞いたのは今年が初めてだ。 |
〜ワールドサイドを歩け!!
41〜

★★★(2005.05.02)
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『ムード・フォー・スカ(Mood for SKA)/ザ・スカタライツ(THE
SKATALITES)』 スカ、いいよね! スカが歴史上初めて僕の耳に届いた契機はスペシャルズだったし、いわゆる「2トーンレーベル」の戦略にまんまと乗っかってスカを勝手に定義してしまうことになった。高速で「ンチャンチャ」とアフタービートを刻むビートスタイルにホーンが乗って、ジャマイカ訛りのメロディがユーモラスに歌われる。それがスカ。 タイトなダークスーツを着ること。それがスカ。インナーはポロシャツでもよいし、襟の短いモノトーンのシャツでもよい。ネクタイは幅の細いヤツ。黒がいいよね。ツバの狭い帽子もムードですね。そんなわけだから基本は短髪。靴は、そうねぇ、先の尖ったブーツでもよいし、ラバーソウルでもよい。いずれにせよ、モノトーンがお勧め。それがスカ。 う〜む、我ながらスペシャルズのデビューアルバムジャケットデザインのムードに押し流されっぱなしじゃん、僕…。 「スカのムード」を勝手に作り上げている僕に対して、本作は「スカの為のムード」というタイトルで立ちはだかった。「スカの為のムード」は、僕の「スカのムード」を揺らがせ、新たに浮かび上がるスカ的ムードは・・・、あぁ面倒くさい! スカという音楽が元来、多彩な音楽のエレメンツを吸収した混血音楽であったことが、本作のサウンドから嫌でも思い知る。カリプソ、R&B、ジャズ、R&R、ゴスペル、アフロ・ラテン等のごった煮から、純度の高い上澄みを抽出した音楽。それがスカ。スペシャルズの形態は、スカにとっては「たったひとつの出口」でしかなかったということになりますね。つまり、たったひとつの出口から喚起されたムードなんぞは微細な問題なのであって、入り口から雪崩れ込んだエレメンツ群(=スカに与えたムード)が重要なのである、と。 なんだか、理屈をこねくり回している僕の立場が卑屈ですな…。本作には小賢しい理屈など無用。熟練した演奏が熱いパッションで爆発している。スペシャルズのような高速ビートではないけれども、充分に腰が動く。 83年のライヴ音源。ラフでアンバランスな録音とミックスが無性に心地よい。チューニングの甘さや演奏のズレさえも、なんだか快適。 そして、この乱雑なサウンドもまた、スカが僕にくれた御機嫌なムード。 |
〜BGMの調べ
第11〜

★★★(2005.05.02)
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『空想特撮シリーズ ウルトラQ 全音楽集/宮内國郎』 2枚組。全176トラック。 解説によれば、実際に制作されたBGMは300曲に及び、中には本編に使用されていないものもあるのだという。 こういったアーカイブ系のディスクを手にするたびに感じるのは、昭和のドラマ制作者の意気込みや労力に対する深い敬服と、商品として受け止めざるを得ない消費者としての戸惑いだ。その2つの感覚は1つの根拠から成る。その根拠とは、これらのBGMが映像の(文字通り)バックグラウンドへの使用を前提に制作されたものであり、ディスクとして一人歩きさせる意図は無かったという音楽的な性格だ。 お酒の準備をしてソファに深く腰を降ろして、CDのスイッチを入れ、目を閉じながら「あぁぁ…」なんていうリスニングは本作には似合わない。っつうか、そんな聴き方をしている奴がいたら気持ち悪いし…。 いや、本作の収録曲が室内でのリスニングに耐えないレベルなのかと言えばそんなことはない。昭和30年代の空気をドップリと吸い込んだ「音楽的センス」や「テクノロジーの特性(特に音響面)」が如実に反映された楽曲群であり、そうねぇ、モンド音楽を楽しむようなセンスにマッチする楽曲も見受けられる。そういった楽曲だけを集め直したら、室内リスニングの最低条件はクリアできそうな気もするのだけれども、なにしろ、短いサイズの楽曲が連続し、バージョン違いの楽曲は多数登場するし、不況和音の多いオドロ系楽曲(テレミンが活躍)の存在がリスニングを安定させてはくれない。もしも、優秀なDJがこれらの楽曲を要所でピタッと決めてくれたならば、最大限の効果を発揮できるんじゃないかという気もする。誰か、トライしてっ! 『ウルトラQ』の映像は時折DVDなどで鑑賞しているが、その中で使われている楽曲から映像と石坂浩二のナレーションを抜いた純正の音楽が浮き上がってくる感覚は悪いものではない。テレビモニタのスピーカー(モノラル)から流れてくるBGMを“聴く”と言うよりは“感じて”いただけだったわけなのだけれども、ここまで真剣に録音していたのかという事実に単純に純粋に感動した。 感動はしたのだけれども、そういった楽しみ方って、音楽に対しても『ウルトラQ』に対しても失礼な気がする。 制作者に安直に敬服する僕の姿勢もかなり失礼だよな…。 |
〜歌謡曲を聴く88〜

★☆(2005.05.09)
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『メモリアル・ベスト/林家三平』 TBSドラマ『タイガー&ドラゴン』が面白い。 脚本:宮藤官九郎、主演:長瀬智也&岡田准一。 古典落語の世界観を現代の様々な事情にトレースすることで、江戸時代の生活観念と現代を時にギャップとして、時に共通感覚として描ききってみせる。人間の心のずるさも醜さも弱さも、時代を隔てた2つの時代において同質のものがあり、しかし、生活風習の違いに起因する状況の差異は決定的にある。その近似性や差異を描くことによって、状況設定に若干のアレンジさえ加えたならば古典落語は「永遠の真理」であることが証明される。落語の世界を観察されたスタイルとして設定したような乾いた感覚に、時折忍び寄るウェットな感覚が見事なドラマ。いやぁ、こんなに面白いドラマって久しぶりだ。 これを機に古典落語への関心は喚起されるのだろう。少なくとも僕は古典落語が聞きたくてたまらない。寄席に通ってみたいな。 そこで、林家三平。 三平は古典落語の破壊者であり、テレビ芸人の礎を築いた人物。高座を走り回り、脱線を繰り返す話芸が電波にマッチし、一世を風靡。「昭和の爆笑王」と讃えられる一方で、「軽薄芸人の代表」みたいな評価も多い。 本作で聴く三平の歌声は達者で、なるほど、高座に収まり切らないマルチな才能を持っていたことが実感できる。大きな口の中で反響する声の制御が実に見事。歌い終わりの息の抜き方などは、本職の歌い手顔負けのスキルだ。ほとんどの楽曲がコミックソングではないことからも、その自信のほどがうかがえる。独特の表現力が確認されるものの、全体を聴き通すと一本調子な印象が残る。おそらく、三平は歌における一種の「型」を獲得していたのだろう。その「型」が独特の表現力となって現れていたのだと思われる。しかし、音楽において「型」のバリエーションは少なかったと見える。 落語史の体系の中で三平をとらえ、史料として本作を展示するならば、この一本調子な印象は有効だと思えるのだけれども、音楽として聴くにはいささか辛い。現代の感覚で共鳴できないんだよね。時代と共に過ぎ去ってしまった音楽だ。 三平は古典落語の破壊者なのであって、後世との共通感覚を持つ古典落語の名人ではなかったということか…。 時代と刺し違えた落語家。 関連(1) |
〜音楽が聴こえる
6〜

★★★(2005.05.09)
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『少年時代/監督:篠田正浩』 少年時代。 この言葉を聞いただけで、鼻の奥がムズムズしちまいますね。 少年時代の思い出は甘く、そして時にホロ苦い。僕には少年時代の後悔や、反省項目があまりにも多い。感情に任せ、そして、思慮の足りなさから、随分と人を傷つけたと思う。クラスメイトに意地悪をしたことなど数え切れないし、我侭を押し通しては両親を困らせた。ずるかったし、卑怯で弱虫だった。今の僕には、少年時代の僕の動機や目的なんぞは記憶に無く、ただただ結果としての事実のみが思い出として残っている。そして、その思い出の大半はやり切れない。思い出の詳細を思い出せば、僕は思わず「ギャッ!」と叫んで逃げ出したくなってしまう。 少年時代の判断基準は、正義とか倫理よりも、子供のメンツみたいな有っても無くてもかまわない程度の自尊心だったのだと思う。僕自身の過去を振り返ってそう思う。自分自身の見栄えの為に、他人を傷つけた。 そんな事を思い出すと、僕は無念でせつなくなる。涙が出そうになる。 そんな無念さと郷愁は紙一重の感覚なのだろう。例えば、夕焼けを見ておセンチになってしまう感覚には両者が含まれているような気がする。懐かしい音楽に触れて、心が柔らかくなる感覚も然りだろう。『夕焼け小焼け』とか『赤トンボ』などの短調系童謡には、郷愁と同時に少年時代への後悔を喚起するメカニズムがあるんじゃないだろうか?
いや、もちろん、個人的な記憶と直結したメロディだってあるはずだ。僕は、仮面ライダーのエンディングテーマを聴くたびに苦い記憶を思い出す。 さて、本作は第二次大戦期の日本(富山県)の少年達を描いた映画。これが、無闇にせつない。僕が住んだことのない土地で、生きたことのない時代が描かれているにもかかわらず、懐かしくてたまらない。 主人公の少年2人が別れるラストシーンには、僕が味わっているような後悔の念が満ちている。そんなシーンに被さって流れるのが『少年時代/井上陽水』。これが、信じられないほど懐かしい。短調でもないし、僕が少年時代に聴いた楽曲でもないのに、懐かしい。夏の香りの奥に言い知れない後悔の念が漂う。しかし、その後悔の念って、実のところ美しいよな。 |