メレンゲ今週のCDご紹介71

スパークス(SPARKS)Nev、XTC、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)、
ザ・フォーク・クルセイダーズ、クイーン、ケメ(佐藤公彦)、
スペンサー・デイヴィス・グループ、ブロンディ

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)



★★★★(2005.04.03)

『ハロー・ヤング・ラヴァーズ(HELLO YOUNG LOVERS)/スパークス(SPARKS)』 デビュー35周年で、通産20枚目の新作アルバム。 ジャケットのウサギの群れは『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』を思い出す。裏ジャケではロン・メイルが歯を剥き出している。 なんとなく、本気のやる気が伝わってくる。 クイーンばりの多重録音コーラスでゴシックなオペラロックが炸裂する『Dick Around』挑発的で高品質。しかし、僕ははぐらかされたような気分。アルバム全体を通して多用されるクイーン風コーラスに、僕は興奮しにくかったな。恐ろしいほどの労力とボーカルトラックを消費した成果であることは充分に理解できるのだが、スパークスの生真面目な側面がストレートに表現されてしまっているようで、ちょっぴり照れ臭い。楽曲はドラマティックに響くのだけれども、ラッセル・メイルの声が単体で届いて来ないことは、ことのほか淋しく物足りない。むしろ、2曲目『Perfume』エルヴィス調に刻まれるディレイシンセと、その上に被さるギターの荒っぽい響きに僕はワクワクした。スパークスの音楽にギターが帰ってきた!(ジャケットのインナーには新加入のギタリスト、ディーン・メンタとラッセル兄弟が電気ギターを奪い合っている写真がある) ギターサウンドとコンピュータが絶妙に絡み合うサウンドを聴くにつけ、早くこのサウンドに来ればよかったんだよ!なんて僕は思うぞ。『Can I Invade Your Country』などは、自身の音楽的バックボーンをごった煮的にミクスチャーしてみせたようで、音楽性のみならず、テクノロジーとギターサウンドのミクスチャーが素晴らしい。興奮した。スパークスの悪ふざけがいかに真剣に継続されてきたかという証であり、こういった側面こそがリスペクトされるべきだ。ベテランバンドとしての貫禄。そんな貫禄をスパークスへの賛辞にすることも奇妙だし、貫禄を感じさせずに継続したバンドだとは思うけれども、この底力には舌を巻くよ、全く。 『Waterproof』は、まさに僕が愛するスパークスソング。間奏のキッチュなギターソロにも大満足。ラッセルの多重コーラスも適切。ま、つまり、他の楽曲でのコーラスは過剰ですよ。 僕はスパークスのファンであるからして、本作のようなアルバムと出合うと、ついつい新しい全盛期の到来か、なんていう下世話な興味を持ってしまうのだけれども、さしあたって、スパークスの制作気力が充実していることは確認したぞ。ここまで張り詰めた気力を持ち前のおふざけ根性で「フッ」と脱力させた時、スパークスは何枚目かのマスターピースを物にするだろう

〜名盤山脈 68〜



★★★☆(2006.04.03)
『恋の自己顕示(PROPAGANDA)/スパークス(SPARKS)』 遺伝子という言葉を僕は意識する。 それは、祖先から受け継いだものとして認識されるケースがメインではあるわけなんだが、自分の両親から倍々ゲームで祖先をカウントしていくことによって、無限とも言える遺伝子情報が僕に与えられているという驚異の事実によって、僕に自信を与えてくれる。 その一方で、こんな用途の遺伝子問題にも僕は素直に感激する。浅草キッドと爆笑問題の不仲の根源を水道橋博士は「キッドと爆笑に共通する要素とは、共にビートたけしの遺伝子を受け継ぐという宿命なのだ」と論じた。祖先から受け継ぐ先天的な遺伝子に対する後天的遺伝子。これはいいね! 人間が自分の意思で採択できる遺伝子というものがあるのだね。 僕が音楽的に最も求めた遺伝子があった。それはスパークスの遺伝子だ。錠剤だろうが、注射だろうが、皮膚移植だろうが、どんな方法でもかまわないからスパークスの遺伝子が欲しかった。悪魔がスパークスの遺伝子をセールスに来たならば、僕は躊躇わずに魂と引き換えにその遺伝子を手に入れただろう。うん、僕が欲しかったのはビートルズではなくスパークスの遺伝子だったんだ。まぁ、それは間接的にビートルズの遺伝子でもあるのだろうけれども、僕が直接的に親としたかったのはスパークスだったのであって、ビートルズは計4名の祖父と祖母だったというわけだ。 一向に現れてはくれない悪魔のセールスマンに業を煮やした僕は、こんな方法でスパークスの遺伝子にすがった。枕元にセッティングしたオートリヴァースのラジカセで毎晩毎晩スパークスのアルバムを再生。今ならばCDのリピート機能を使えば同じことが実現できる。つまりは、睡眠学習ですね。深く深く、僕の奥にスパークスが染み込むことをイメージしていた。そう、それは遺伝子の注入とも言うべき儀式だ。 そんなわけで、僕は本作を異常とも思える回数で聴いた。それも顕在化した意識で聴いた回数よりも、潜在意識に注入した分量の方が圧倒的に多いものだから、理論よりもイメージで僕の中に蓄積されている。 僕が作った「ヒネくれポップ」の数曲が「スパークスのような…」などと評価されたことがある。露骨なパクりを除けば、それはなるべくしてなった遺伝子のなせる成果だ。 そんな僕が(まるで爆笑問題と浅草キッドのように)激しく嫉妬し、尊敬したミュージシャンがいた。もちろん、布袋寅泰のことだ。 キッドと爆笑のようなバトルに至らなかったのは、僕の力量ゆえ。 布袋氏のところには、スパークスの遺伝子を売りにきた悪魔のセールスマンがいたのかな。


★★★☆(2005.04.10)
『Herseye Ragmen/Nev』 顔が誰々に似ている、なんつうう話は概ねいいかげんなものだ。「ほんの小さな類似点」を見出しては似ていることにしてしまうケースが多々ある。出っ歯は皆、久本似になっちゃうの(稀に上戸彩?)。 女の子が同性の友人を「●●に似た可愛い子」なんてなんて表現で話題にしても、実際にそうだった試しなんて無いに等しいでしょ?(「ほんの小さな類似点」だけは実際似ていたりするんだよな、これが…) 更に、自称「●●に似ている」ってぇのも困る。自称とは言え、通常は「よく人様から言われる」ということになっているのだけれども、自分の口で堂々と言う以上は自称ですってば。これは相手に「●●に似ている」と認識して欲しいという欲求、いや、要求ですね。自称の「似ている」は話半分に聞くのが正しいぜ。 ってなわけで、僕自身が似ている人間の話を書く。話半分に読んでくださいね。 小さな頃から加藤和彦に似ていると言われ続けましたね。いいかげんにウンザリしていたけれど、10代の終わり頃には黒船のジャケ写とインナーのプロフィール写真を見て、「あ、こりゃ確かに!」と思ったさ。その後、両者は別のベクトルで顔を進化させ、今は滅多に言われなくなったな。ニューウェーヴ時代にはマーク・アーモンドに似ていると言われた。加藤和彦の眼は細いが、マーク・アーモンドの眼はでかい。端的に言えば、僕と加藤マークの共通点は口元がニヤケているってことなんだな。僕の証明写真は全て口元がニヤケているが、笑っているわけではない。そういう口の形なの! その後は眼鏡を変えるたびに、眼鏡が似ている人と似ていることになった。イッセー尾形とかスガシカオとか。それって、「ほんの小さな類似点」だよね。 で、僕が誰に似ているかなんていう話はアナタと同様に僕にさえ興味の薄い話なんだが、本作を紹介された時にこのアーティストと僕の顔が似ていると指摘されたわけなんさ。ジャケ写とインナーで計3枚の写真があるのだけれども、どの写真も確かに似ている…。そうなってくると、他人とは思えない気分になってくる。 Nevはトルコのアーティスト。美声で端正に歌い上げる手法がドラマティックで、楽曲によっては近年の韓国のバラードを思い出す。実際、非英語圏の外国語という意味でも、似ている(これも「ほんの小さな類似点」・・・)。コブシ唱法ではヌスラット的な技能も披露。僕はそっちがお気に入りだ。 神経質に作りこまれたバックトラックが快適。この顔の人間は一点集中の神経質さを持ち合わせるのかもな、と自分を省みて納得。 しかし、Nevの口元も見事にニヤケていますね…。
〜名盤山脈 69〜



★★★(2006.04.10)
『Rag & Bone Buffet/XTC』 『アップル・ヴィーナス』リリース時に、XTCはプロモーションで来日。僕は都内の外資系CDショップ催されたインストアイベントでXTCの姿を目撃した。演奏は一切せずにCD購入者に漏れなくサインをする、というユルいイベントではあった。僕は数日前にCDを購入して、レビューまで掲載したにも関わらず、同じCDをもう一枚購入する羽目になったわけさ。だってぇ、サインが欲しかったんだもん…。 そこそこに長い行列に並ぶと、その先頭付近にはテーブル席についたアンディ・パートリッジとコリン・ムールディングの横顔が見えた。この時点で、XTCのフルメンバーだ。 サインが欲しくてCDを2枚買うくらいだから、僕はXTCにミーハーな感情を抱いていたわけで、XTCの2人との距離が物理的に縮まってくるにつれ、ソワソワしちゃったわけです。ソワソワしつつも、2人の動きは冷静に観察。基本動作は2人とも握手→サインという流れ。コリンは愛想よく客に話しかけたり笑ったりしている。一方、アンディは気難しそうな表情で、客に対してほとんど喋らないし、客の顔を全く見ていなかったりする。そこで僕は、目標を設定したのさ。ソワソワしながら。(1)2人と2回ずつ握手すること(他の客は1回ずつ)(2)アンディと目を合わせること(3)アンディと会話をすること 以上、3点の目標。 やがて、コリンの前に立った僕。愛想よく「Nice to meet you」と笑顔で挨拶してくれた。僕は咄嗟にジェームズ・ボンド映画の1シーンを思い出し、ボンドのイントネーションで「Nice to meet you too!」。コリンが笑った。いいぞ。一回目の握手。笑顔でサインに応じるコリンだが、このままでは握手は一度で終了だろう。僕は「ワシゃあ、アンタのベースラインから多くを学んだぜ」と下手な英語で伝えた。コリンは一瞬にして真剣な顔になり、顎をクッと突き出し、僕の眼を見ながら握手を求めてきた。 そして、アンディ。社交辞令的な「Nice to meet you」の挨拶で握手をするが、僕の顔をチラリとも見ない。そして、サインに突入。いかん。僕はアンディを目の前にして緊張しているし、ウットリしてしまっている。デレデレとアンディの後頭部を見つめている。時間が無い! 僕は英語の文法を頭の中で整理することもなく、「ワシゃあ、尊敬しとる、アンタを!」と言い放った。アンディは驚いたように僕の顔を見つめ、僕の英語能力では聞き取れない速度で何かを語りかけた。そして、「うん」と口を結んで頷き、僕に手を差し出した。 目標は果たした。 ポーッとしながら、その場を去る僕の耳の奥にアンディの声が残っていた。アンディが録音物の中でスピーチする時の声と、さっき僕に語りかけてくれた声がピタリと重なった。 僕は夢見心地だった。 その声は本作の『History of Rock & Roll』で確認してください。僕はこの楽曲(?)をモーガン・フィッシャーの編集アルバムで初めて聴いた瞬間から、アンディの生声に惚れていた。
〜カリスマの遺言 10〜



★★★☆(2005.04.17)
『ストランデッド(Stranded)/ロクシー・ミュージック(Roxy Music)』 変革というものを、どのような動機で行うか。これは重大な問題だ。 もちろん、変革を必要としない人間にとっては意味の無い問題ではある。(とは言え、時代が変わっていく中で、自分は変わらないという「超保守」を貫くことそれ自体は、全体性の中では充分な「変革の連続」であるようにも思うけどな) 「何かを捨てる」という行為が変革の動機として認識されることが一般的のような気がする。例えば脱サラは現状の立場を捨てるという意味だ。「背水の陣」という言葉も自ら逃げ道を断ち切るという意味で、精神的に捨てる行為だ。 ま、だからと言って、「捨てさえすれば何かが変わる」と思い込むことは早計であるわけで、やはり、変革の意識自体が先に存在しなければ契機となる行為に意味はない。 ビートルズはコンサート活動を捨てることによって変革を成し遂げた。たぶん、「もうやってらんねえや」という逃避的な意識が核だったのだろうけれども、彼等の場合、根本の創作モチベーションが異常に高かったが故に、捨て去ったものと同等以上の結果を手にすることに成功したわけだ。 ロキシー・ミュージックを1枚目からの流れで聴くと、本作での変貌には嫌でも気づく。本作から振り返ってみれば、最初の2枚(イーノ在籍時)は、全てエクスキューズの上に成立しているかのようにさえ思える。 「いやいや、アタシらは素人でゲスから…。演奏力や音楽性なんぞに期待しっこなしでさぁ。その代わりと言っちゃあなんですが、奇妙奇天烈な音楽でお耳を汚させていただきますでゲス」 そんなエクスキューズがプンプンと匂うわけなんだが、あまりにも思い切りの良い過剰な「奇妙奇天烈音楽」は、やはり尋常ではない衝撃を伴っていた。本作では演奏力のみならず音楽性も圧倒的に向上。その分、初期の衝撃は薄らいでいる。所期のテイストを引きずっているのは『Amazona』だけだね。 「奇妙奇天烈音楽」を提供する奇形集団であることに胡坐をかかなかったロキシーの精神は、例えばトーキングヘッズやジャパンに継承されたと言えるだろう(どちらも多くの意味でロキシー的だよね)。 この変革に必要だった動機とはイーノという奇妙奇天烈音楽家とエディ・ジョブソンという至極まともな音楽家のトレード。やはり、ロキシーの変革にも捨て去ったものはあった。 『A Song For Europe』から『Mother Of Pearl』『Sunset』と流れるクライマックスは何度聴いても僕を別の空間に連れて行ってくれる。 僕とロキシーの出会いの曲である最後の2曲は10代の僕に変革を促してくれただけでなく、今も強い要請をしてくれる。
〜歌謡曲を聴く101〜



★★★(2006.04.17)
『ハレンチ/ザ・フォーク・クルセダーズ』 オリジナル・フォークルの唯一の音源となる自主制作盤。 随分とキザな音楽だな、と思う。すかしている。 世界のフォークソングをカバーするコンセプトがまずキザだ。日本・韓国・ゴスペル・キューバ・メキシコといった世界各国の大衆音楽を「フォーク」と括ってみせるコンセプトの鮮やかさがキザだ。また、その解釈が恐ろしく鋭いのもキザだ。初期のビートルズがアメリカのR&Bやポップスを新解釈でカバーしてみせた精神と近いものを感じる。ビートルズが飄々と『蜜の味』を演奏したように、フォークルは『ひょうたん島』をフォークと解釈して演奏してみせる。 選曲の妙がキザである以上に、どの曲にも巧妙にモダンなハーモニーがつけられており、つまりは、どんな楽曲であっても、自分達のフィールドに納めてみせるという自信がみなぎっている。キザだ。アレンジや演奏も然りで、12弦と6弦のアコースティックギターによるアンサンブルの美しさにはいつも感心してしまう。 また、1967年の自主制作アルバムという情報だけで想像される音楽は、僕にとってはデモテープみたいなレベルのものなのだけれども、本作は上手く作りこまれている。楽曲によっては適切なパーカッションが加えられていたり、効果的に基本楽器以外の音が挿入されている。最小限の予算で最大限の効果をあげる手腕は、すでにして敏腕のプロデューサーだ。たぶん、ダビングはほとんど無いのだろうけれども、音響的にも問題は無い。 まさにその時に持っていた才能を注入しまくった音源。その才能は見事に音に反映している。しかし、そんな音源をたった300枚の自主制作レコードとしてひっそりと販売しようとしていたセンスは、多くのリスナーを蔑ろにしているという意味では、実のところ犯罪的行為だとさえ思える。しかも、解散記念だってさ。そんな実情がキザだ。 音楽に人生を捧げるような汗臭い浪花節根性なんぞは微塵も持っていないくせに、極上の音楽をあっさりと作ってしまう。キザだ。そんなダンディズムが京都人特有のものに僕には思えるのだけれども、どんなものかしら? 「ダンディズム」という意味では、僕はフォークル的な姿勢は好きだね。音楽に人生を捧げた浪花節音楽家が長期タームで音楽的瞬発力を分散するのに対して、フォークルは短いタームの中で瞬発力を集中するわけなんだよね。だから瞬発力の密度は当然濃いし、集中している時間以外には飄々としていられるわけさ。 そういうかっこよさを「粋」「スマート」「スタイリッシュ」、そして「キザ」って言うんだよ。
〜カリスマの遺言 11〜



★★★☆(2005.04.24)
『クイーンU(QUEEN II)/クイーン(QUEEN)』 やはり、フレディ・マーキュリーは急いでいたのだろう。 その音楽性の中に既にビートルズの在り方を孕んでいたクイーンにとって、クイーン流の『アビー・ロード』を手っ取り早く完成させて、さっさと次のフェーズに移りたいという思惑があったのかも知れない。ファーストアルバムが思ったように売れなかった実情に対する焦りがあったのかも知れない。 なにしろ、本作に漂う気配は、「とんでもねえ傑作」を叩きつけんとする気迫に満ちている。デビューアルバムなんぞは、まだまだ出し惜しみをしていたようなもんで、デビューアルバムの制作中から本作の構想は頭の中にしっかりと在ったんじゃないかな。「伝説」の青写真はしっかりと存在して、アルバムコンセプトのみならず収録曲の振り分けもキッチリとできていた、と。僕はフレディ・マーキュリーを、そういう人だと信じる。 本作では、ギターやコーラスのダビングも一層複雑化。執念の重ねですね。まるで、クイーンはビートルズとビーチボーイズというハードルを越えることに標的を集中しているようにさえ思える。さして売れてはいないルーキーの仕事としては、実に生意気で、実に大胆。しかも、レコーディング費用が異常にかさむことはデビュー作でも触れた通り。 どの楽曲もソングライティングからアレンジ、演奏、録音に至る全てのファクターで見事に性格づけが成されており、そのクオリティは凄まじい。しかも、アナログB面に当たる『Ogre Battle』からの流れは、(当たり前の話ではあるのだけれども)メドレーを前提として、これだけ位相の異なる楽曲を作ってみせたのだから、そのイマジネーションの深さには敬服する。しかも、『アビー・ロード』におけるポール・マッカートニーの偉業のやや上をハードルとして設定しているわけで。ビートルズとの対比をセールスポイントにしようなどという卑屈な意識は感じられない。フレディが己に課す目標設定の高さはストイックだ。尊敬する。しかし、目標設定以上に困難な制作プロセスで苛々しながら集中するフレディの姿を想像してみると、僕はそんなフレディが最も好きだな。 『Nevermore』でフレディは歌う。「♪あなたが僕への愛を拒んだ時に、僕は魔界(ネバーモア)に追いやられたのだ♪」 この歌詞にフレディの執念深さとプライドの高さと異常な決意を感じるわけなのだけれども、「売れて当然なのに、なんで売れねえんだよ?馬鹿野郎!」という執着心が無ければ、本作のモチベーションは生まれなかったのかも知れないね。
〜歌謡曲を聴く102〜



★★☆(2006.04.24)
『BEST エレック・イヤーズ/ケメ(佐藤公彦)』 「貴公子」という言葉が、キャッチコピー的にアーティストの形容になる時代があったわけなのだけれども(と言うか、あったはずなのだけれども)、ケメは「フォークの貴公子」だったんですね、きっと、たぶん。そう言えば、吉田拓郎に対して「フォークの貴公子」というキャッチがついた記述を見たことがあるけれども、なんだか、僕にはケメの方がシックリ来るなぁ。 ケメは「貴公子」で、たくろうは「貴公子」ではない理由をボンヤリと考えてみる。 (30秒間、熟考) うん、わかった! ルックスだね! だってさ、市場に対するインパクトや影響力の強さから言えば、たくろうの勝ちなわけじゃん? でも、ルックスを比較したならば、ケメの方が(判り易い)可愛さを持っているじゃん? つまりは、王子様じゃん? あ、そうか、「貴公子」」は、僕の中で「王子様」と同列なのか…。 女の子みたいな印象で、可愛いルックスのケメではあるんだが、そのことを意識して意図的に仕掛けたことなのか、自然体のままでそうだったのか、それは判別不能だけれども、声も可愛い。この場合の「可愛い」とうのは、やはり判り易い意味で「可愛い」ということであって、例えば、アニメ業界で、さも可愛い表現として多用されるロリ声に近い意味での「可愛い」だよな、やっぱり。だから、アニメのロリ声にムカつくように、時としてケメの舌っ足らずな可愛声にはムカつく。ま、顔と声がマッチしていたわけですね。 本作は5枚のオリジナルアルバムから抜粋されているのだけれども、『午後のふれあい』(72年)と『千羽鶴』(73年)からの楽曲がメイン。この2枚のアルバムの性格付けが面白い。前者はソフトロック的アレンジのポップ作品で、僕はドノヴァンのフォーク・ロックを思い出す。っつうか、真似ていたのだろう。ビートの強いポップ楽曲には「ガラッパチな歌詞」が乗っている。『ぼくがここに居るからさ』などは、ポップでサイケな節回しとスタイリッシュなバックトラックがかっこいいぞ。後者はよりアコースティックな音響を核としつつ、情緒的な歌詞がシットリと歌われている。「故郷志向」とか「ディスカバー・ジャパン」とかいったキャッチコピーが浮かんでしまうけれども、生真面目な取り組みは好印象だ。 で、そんな別ベクトルの2枚が実にケメの顔と声の特性を活かしていると思うんだな。 ちょっと陽気にはしゃいでいて欲しいけど、夕暮れには膝を抱えて涙ぐんでいて欲しい男の子。 こうしてキャッチコピー風に書くと軽薄に聞こえるかも知れないけれども、そんな男の子(ケメ)にウットリした当時の女の子は幸福だと思うよ。


〜グレイテストな
ベスト 31〜




★★★(2005.05.01)

『The Best Of THE SPENCER DAVIS GROUP/スペンサー・デイヴィス・グループ』 スティーヴ・ウインウッドの業績の中でもダントツに判り易いのがスペンサー・デイヴィス・グループ(以下、SDG)だよな。 「白人なのに真っ黒な音楽」と一言で括ることが出来る。トラフィック以降は、そういうわけにはいかない。もちろん、一言で単純に括れない分だけ、音楽の奥行きも増し、味わいも単調ではなくなっていったわけなのだけれども。 リンゴ・スターはSDGを聴いて米国産の黒人グループだと思い込んだと言う。うんうん、わかる! どの楽器の演奏も達者で、リズムの押し出しに徹している姿勢がまるで黒人グループのようにビートを成立させている。また、ピークぎりぎりでひずんでいるドラムスやベースの音量も、当時のイギリスの音楽シーンにあっては圧倒的だっただろう。すげぇアメリカっぽい音になっているよね。はっぴいえんどにおける大瀧詠一のようにマニアックな音作りをした仕掛け人がいるんじゃないのかなぁ、これ。「いやいや、アメリカのサウンドはそうじゃねぇんだよ、もっと録音フェーダーを上げろ!」「いやいや、それじゃ、音が割れちまいまさぁ。第一、カッティングが難しいし、お客さんのプレーヤーで針が飛びますよ」「アメリカのレコードを聴いても、俺んちの針は飛ばんよ。いいから、上げろ!」「(ため息)はいはい」 仕掛け人とエンジニアの間でそんな会話があったのではないかと冷や冷やする。いや、仕掛け人がコンソールの前に陣取って好き放題に作業を進行したのかも知れないけどな。 話を戻すけれども、そんなわけで、SDGは音が違う。だから、リンゴも勘違いする。更には、オルガンの使い方がファンキーで黒いよね。鍵盤の叩き方が強いんだよね。しかも、音はピークぎりぎりでひずんでいる。更に更に、歌だよね、歌。黒人のファンキーボイスをほんのちょっぴり細くしたテイスト。それでも当時のイギリスでは充分に黒かったのだろう。今となっては、黒人風の白人ボイスとして充分過ぎる個性を感じる。 『I'm A Man』は何度聴いても素晴らしいなぁ。ゾクゾクする。子供が大人の世界を垣間見て後ろめたさと開拓精神を混ぜこぜにして感じるゾクゾク感みたいなものを、とっくに大人の僕が感じる。「開かずの間」の扉を開けてしまった気分だ。 アメリカ黒人流R&Bの英国解釈がビートルズやローリング・ストーンズ流で定着していた時期に、SDGが禁断の扉を開けてしまった楽曲であるには違いないことだ。 禁断の扉を開ける前のビビリには、こういう楽曲を聴くべきだ。だから、聴いた!
〜Drive to 80's Vol.72〜



★★★(2006.05.01)
『ザ・ベスト・オブ・ブロンディ/ブロンディ(BLONDIE)』 デボラ・ハリーがセックスシンボルだった時代は確かにあったのだった。 マドンナ以前。当然、倖田來未以前。 エロのモードは時代とともに変遷してしまうから、今となっては、デボラの映像を見ても全くピンと来ないわけなのだけど…。目にも脳にもチンコにもピンと来ない。 あれ? じゃあ、当時のデボラに当時のボクのチンコがピンと来たのか、とか、マドンナの時代や倖田來未の時代にその時代の僕のチンコがピンと来たのかと言えば、実はどれもピンと来てはいないや。 そう考えると、ユーザーの身体が反応したかという結果や実績ではなくて、送り手がセックスを意図した表現をしたかという戦術にこそセックスシンボルという実態があるんじゃないかな(スージー・クアトロの「股間に響くベース」「SMロック」ってなコピーとかな)。ま、デボラやマドンナやくーちゃんで欲情したユーザーもいるだろうから一概には言えないけどな。 ブロンディの楽曲は実にポップでヒット性が高く、今もビールのCMでバンバンとカヴァーされ続けている。プロデュースはマイク・チャップマン。僕はチャップマンの仕事、大好きです。時代性や市場性を熟慮してチャッカリと歩み寄りつつも、異化作用を喚起する刺激はカッチリと投入し、自己主張はキッチリとする。チャッカリ&カッチリ&キッチリ型のプロデューサー。これぞ、鏡! スージー・クアトロもチャップマンの仕事であることを思い出せば、ブロンディの戦略もチャップマンの市場読解力によって完成したものだと理解できる。 ニューヨークパンク時代のデボラ・ハリーって、洗練されていなくて、自分のセックスイメージを確定できないままに下品なロック歌手を演じていたように思う。僕には、あの界隈のパンクス(イメージとしては、ニューヨークならではの文芸型の詩人さん達)に都合よく扱われていたんじゃないか、なんて思えてしまう。例えば、本当はパティ・スミスを恋人にしたいのだけれども手が届かないから、デボラで欲情を処理しておく、みたいな。そんで、また、本人もそんな浮ついた恋の遍歴で女が磨かれていると勘違いして、ますます品性を落としていく、みたいな…。実態はよく知らないけれども、そんな印象があるなぁ。 デヴィッド・クローネンバーグの映画『ビデオドローム』で観るデボラ・ハリーはまるで一般庶民には手が届かない高級娼婦のようだ。いや、これは誉め言葉。だって、デボラはとっくに自分の対外イメージを制御しているわけだからさ。 ロック歌手としての成功が彼女に与えた勲章。 そして、ブロンディの楽曲群もまた、今もピッカピカに輝いている。

【メレンゲでGo!! HOME】  『メレンゲ今週のCD』

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