メレンゲ今週のCDご紹介72

岡村靖幸プリンス&ザ・レボリューション(Prince & The Revolution)、ザ・フォーク・クルセダーズ、
西郷輝彦、フランク・ザッパ(FRANK ZAPPA)、ファンキン・ラタ(FUNK'N LATA)、
ブランドX(Brand X)、60'sヒットパレード20、ゴング(GONG)、井上順

評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)

〜Drive to 80's Vol.73〜



★★★(2005.05.15)

『Peach Show'89/岡村靖幸』 今となっては中途半端なエイティーズの国産ポップスだったのだな、岡村ちゃんの音楽は。と、本作を観て思ったのさ。当時の楽器が現在では大時代的で音色が古い、という問題は想像力さえあれば脳味噌の中で現代版の音色に変換可能なわけで、僕は想像力を思い切り酷使してみたけれども、どうもそういうポイントではないよ、この古さは。時代の流行に裏付けられた「時代のアレンジ」は確かに古い。エイティーズ特有のエレファンク風だったり、シンセの響きを中心に据えたエイトビートの気恥ずかしさは、思わず「8」が呪われた数字なんじゃねぇのか、とさえ思ってしまうよ。でも、時代のモードに目くじらを立てるリスニングはしないぜぇ、僕は。 ところで、僕が何故、こんなに岡村ちゃんの中途半端な古さに固執して、執拗に意地悪にほじくり返しているのかと言えば、「あれぇ? 岡村ちゃんってこんなもんだったんだっけ?」と思ってしまったからに他ならない。そして、その違和感(と言うか、今更覆ってしまった低い評価)の主旨が、どうもエイティーズという時代と密接に関係しちゃっているような気がして…。気がしたから、岡村ちゃんのCDを引っ張り出して聴いたのだけれども、リスニングで感じる古さは前に挙げた音色やアレンジという問題の中で消化できちゃう。でもね、歌詞はちょい照れ臭かったなぁ。 と、そこでビデオ映像に再び目を向けてみると、歌詞に感じた照れ臭さと同質の照れ臭さが確かにあった。そうか、「岡村ちゃんの志」が古く感じられて、また、そこが照れ臭いんだ、と気づいたさ! 岡村ちゃんがステージで「何」を模倣しているのかと言えば、それは今更言うまでもなくプリンスなわけです。「プリンス的なモノ」を当時の日本で可能な最大限の極みまで持ち上げたのが岡村ちゃんだったわけです。そのステージに捧げられた岡村ちゃんの労力は想像を絶する。歌もアクションも楽器も衣装も演出も! だからこそ、時代のトップランナーとして彼は光輝いた。しかし、その光は継続する性格のものではなかったんだね。まるで花火のように。 本作を観ながら、イントロや間奏やブレイクで踊りやアクションを決める岡村ちゃんが歌唱中は棒立ちである風情こそが本作に感じる古さの本質だと僕は気づいた。当時の岡村ちゃんが実感していた「時代の上限」が今から見たら低過ぎたということだ。僕の視線は21世紀のものだからね。 “例の事件”とは無関係に、岡村ちゃんの姿が儚く美しく、そして古臭いことにシミジミとした気分になった。テレビに映る岡村ちゃんはあくまでもドライな目つきのままなのにね。

〜Drive to 80's Vol.74〜



★★★☆(2006.05.15)
『LIVE/プリンス&ザ・レボリューション(Prince & The Revolution)』 岡村ちゃんビデオを観たついでに、と言ってはなんだけど、続けて本家を観たデスよ。 本家と分家を続けて見比べてしまうと、僕はまるで本家・分家に最終権限を持つ長老のように尊大な態度になってしまう。 「ふむふむ? なんじゃい、舞台におる演者は本家の方が分家より少ないではないか! 分家はおのれの立場をわきまえておらんようじゃのぉ、ゴホゴホ。」とまずは分家に対して簡単な嫌味。 「それにしても、本家の総領は背丈の低い小男じゃのぉ。これで、まっとうな仕事ができるのやら? それに比べて分家の家長の大きさよ! しかし、下半身が締まっておらんのぉ。畑仕事をしとらんのかの?」と、これは双方への嫌味。 「舞台の15尺(約5m)を分家の家長は5〜6歩で横歩きしよるが、本家の総領は30歩も使ってチョコマカ動きよる。これは背丈の差なんじゃろうよのう?」と、これは本家への皮肉に聞こえるが、実のところ、本家特有の演出であって、16ビートを感じさせつつユーモラスな効果を醸し出す小刻みステップだ。むしろ、分家のステップの甘さを気にかけるべきなのだが、長老は尊大なあまりに自己批判が足らず、本質を誤ることが多い。 「それにしても、本家の家族は働き者じゃのう。三味線奏者も琴奏者も鼓打ちも、楽器だけでなく、舞踊も謡いもこなしよる。分家は家長だけが目立っておるのぉ。家族仲良くするべし!」と、分家を批判しつつも、長老は分家の舞踊&謡い専門の薄着姉妹の存在にホクホク顔だ。しかし、そんな好色な自分を省みずに長老は続ける。「それにしてもよ。本家も分家も何故に人様の前で子作りの真似をしよるんじゃろ? ワシの若い頃は、人目をしのんでコッソリとやったもんじゃが…。なんとまぁ、恥知らずな! し、しかし、本家の腰は良く動くのぉ…」 SEX(子作り)表現の差は、本家と分家の土壌(所属国家)の差と無関係ではないだろう。分家は立場上、おおっぴらな子作り動作は許されなかったはずだし、一方で、本家が子作り動作を人前ですることが本当に好きでたまらなかったようにも思え、性格の違いでもあるだろう。 長老様ぁ、本家は本家ゆえに本流なのであって、分家は本家とは遠く離れた土地で、本家の看板を守ってきたのでさぁ。分家はガムシャラに本家を追いかけたんでごぜえますが、本家は分家の存在さえも知らなかったんでがんす。どうか、そのことを察してあげた上で、本家と分家の両方に言葉をかけてやっちゃあいただけませんか? 「ふむ。その言葉や良し! 本家と分家には共通したものがあるのぉ。」 長老、そいつは一体何ですかい? 「どちらも、今のワシの耳と目には古すぎるということじゃよ」 ちょ、長老…。
〜歌謡曲を聴く103〜



★★★(2005.05.22)
『当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)/ザ・フォーク・クルセダーズ』 このライブ音源は凄い。 いわゆる「センスのいい奴」が、どれだけ非凡で、高い水準の仕事をやってのけるのか、という凄味を嫌と言うほど味わう羽目になる。 まず、冒頭の『フォークル・ハレンチ口上』から連なるメドレーが凄い。メドレー一曲目の『フォークル節』では、歌詞の中でバンドコンセプトを明確に声明しつつ、メンバー紹介とギャグが散りばめられ、『ラ・バンバ』が実に自然に挿入される。巧妙なアレンジで、現代で言うところのサンプラー文化的ミクスチャー&エディットなセンス。しかし、もちろん、ステージのバックヤードで専任のエンジニアがサンプラーのポン出しをしているわけではなく、生ギター2本とパーカッションのみで楽曲は最高の洗練を見せる。まるで芝居を見ているような展開は全く澱むことがなく、フォークルの面々が優れたタレントを持っていたことが理解できる。無軌道に逸脱する楽曲は『ゲゲゲの鬼太郎』へと展開するのだが、そのイントロが12弦ギターで奏でられる『ミッシェル/ビートルズ』。実にさりげなく、実に深い。端田宣彦が鬼太郎の物真似を始めるや否や、鬼太郎ソングの音量は速やかに下がる。これはミキサーのフェーダーではなく、加藤和彦と北山修がマイクから離れたのだろう。完璧なエンターテインメントだ。加藤が歌うジャックスの『からっぽの世界』では、ストリングスやマリンバ、バイオリン、サックス、ドラムスの音が聞こえるわけだから、この日のライブにはフォークル以外の演奏家がセットされていたことになる。いや、それどころか、『帰ってきたヨッパライ』サイケなラウドサウンド(『タックスマン』風!)にアレンジされているわけで、フルセットのバンドが準備されていたことになる。そのバンドを全編に使うことも可能だった、と言うよりも、凡人ならば、全編をバンドサウンドで統一するに決まっている。だって、多くのバンドがそうじゃん? ビートルズだってどうだったじゃん? しかし、フォークルは実にストイックに楽曲の個性を尊重し、バンドアレンジの魔力を撥ね退ける。 フォークルのライブに対するスタンスとは、自身を客観的に捕らえた知的なものなのであって、全体の進行が実にクールにディレクションされていることがわかる。 「良い楽曲を良い歌唱と演奏で表現する」という根本原理はフォークルにとって、本当に根本に過ぎず、「その根本に基づいて何をすべきなのか?」という次のフェーズに集中していることは明白。 「仕事」とは、そうあるべきだよな。
〜歌謡曲を聴く104〜



★★★☆(2006.05.22)
『ベスト16/西郷輝彦』 御三家! 橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦。 つまり、時の音楽市場を圧巻したトップスターだったわけですね。今現在の目線で、古いアイドル性が理解できないとか、その頃のアイドル歌謡は今よりも全然良いとか、そういう斜め読み的な論調はどうでもいい。この3名と、その音楽が時代が求めた大衆文化だったという結論があるだけだ。 と、結論づけてみたものの…。 どうも、僕には橋・舟木に比べて西郷だけは歌手としての印象が薄いんだよな。トップアイドル期以降の西郷の俳優活動の印象が強いからかも知れない。辺見エミリの父親というイメージは西郷の特筆すべき看板だとは思わないから、影響は無い。 西郷にはヒット曲はあるし、歌手としての力も充分にあるにも関わらず、橋・舟木に比べて歌手としての印象が薄い。そう言えば、錦野旦にも西郷と同じ質感があるよな。 そんなことを考えながら聴き通す16曲。 う〜ん、この人の精神的資質が歌手という立場に無いんじゃないかという気がする。例えば「あなたの職業は何ですか?」との質問に「歌手です」とキッパリ答えるのではなく「歌手もしています」と答えられる、そんな余裕を感じるの。勿論、当時の西郷はそんな回答をしなかっただろうし、キッパリと歌手だったはずなのだけれども…。 その余裕の質とは、西郷の恵まれた資質によるものなんじゃないだろうか? 男前で、スタイルも良くて、歌も上手くて、他者の視線に応えられる能力を持っていて(天性でなければ、その能力を伸ばす能力を持っていて)、運も良かった。いや、西郷が自惚れの強い自信家だったと言いたいわけではなく、自分の未来を強く信じる力を持っていたのだと僕は言いたい。だから、歌が切羽詰ってはいない。人生を100%載せてはいない絶妙な軽さがある。自分が謳歌する音楽こそ、市場が求める商品なのだと確信できているような明るいオーラに満ちた楽曲群。こういう人は強いよね。 『メキシコ娘』は橋幸夫の『メキシカンロック』の明らかな二番煎じだが、その発声から西郷の口元が軽く微笑んでいる様子が浮かぶ。その余裕によって、おおらかな表現の楽曲として成立しているわけだが、本気モード100%で大真面目な橋幸夫の方が楽曲の説得力は高いわけだよね。 僕はドサ回り期の西郷輝彦の大迫力のステージを見ているのだが、その記憶を持ってしても、やはり西郷の歌手としての印象は薄い。 ところで、当然のように本作に収録されない『ローリング・ストーンズは来なかった』こそが、西郷の歌手としてのスタンスを明確に現しているって思わない?
〜カリスマの遺言 12〜



★★★☆(2005.05.29)
『ワカ/ジャワカ(WAKA/JAWAKA)/フランク・ザッパ(FRANK ZAPPA)』 膨大な数のタイトルをリリースしたアーティストに手を出す時、僕は困ってしまうわけです。ガイドブック情報でライターの推す名盤をスンナリと受け入れるのか、それとも、律儀にファーストアルバムから聴いていくのか。いや、目をつむって人差し指を宙に浮かせ、テキトーなところで「これっ!」なんつって止めて、その偶然を信じるなんていう方法もあるよね。ま、いずれにしても、購入者の性格が露呈する場面なのかも知れない。 え? 待てよ…。 僕は、その3つの方法の全てを採用した経験があるぞ。ってぇことは、つまり、購入者の性格ではなく、対象アーティストの性格によって採用方法が選ばれると考えた方が自然なのかな? というわけで、僕は本作でザッパに入門しました。あ、いや、いまだに「入門者」のままですが…。 『フリークアウト』『万物同サイズの法則』『ジョーのガレージ』とかではなく、本作。インストゥルメンタル楽曲を中心に、たった4曲しか収録されていない。延々とジャズロックが進行するアルバム。「フュージョン」とか「クロスオーバー」と呼ぶより、「ジャズロック」がシックリと来るなぁ。何にせよ、所有レコードが少ない時代に購入したディスクだったので、繰り返し繰り返し何度も聴いたアルバムではある。 改めて聴く本作は、ホーンのテイストが信じられないくらいに心地よく、恐ろしくリズムの確かなジョージ・デュークのエレピを間に挟んで、ディストーションで歪んだり、ワウワウがきつくかかった電気ギターとのバランスや相性が素晴らしい。手数が多いエインズレー・ダンバーのドラムスであはるが、エロアネスのベースはバスドラムにガッチリと喰らいついている。変則的にビートが変わる瞬間にもガッチリと。 いやはや、しかし、この複雑な構成の楽曲は、ザッパがあらかじめ頭の中で青写真を描いていたものなのか、セッションの中で生まれたものなのか? さしあたって、テープを切り張りしたような印象は無いのだけれども、各演奏者がパートの変り目で繊細にニュアンスを変更している技能も含め、恐ろしいばかりだ。録音もミックスダウンも音を一度決めたら一切フェーダーやツマミをいじらずとも、演奏力だけでこのクオリティの音響が成立していたんじゃないかな。と、するならば、ザッパが膨大なタイトル数を次から次へとリリースした秘訣はその辺にあるようにも思える。「コンソールでの調整に時間をかけるならば技能を上げよ!」みたいな…。 凄まじい執念、そして信念。
〜ワールドサイド
を歩け!! 50〜




★★★☆(2006.05.29)
『Funk'n LATA/ファンキン・ラタ(FUNK'N LATA)』 音楽には身体に来るものと頭に来るものがあると思う。フィジカルとメンタル、ね。同じことはセックスにも言える。本能全開のセックスと頭でっかちなセックスは、結果が同じでも、発端やプロセスには大きな違いがある。いや、結果さえも違うのかもね。 僕はともすれば、頭が先行してしまうタイプではあるのだけれども、頭でっかちなセックスを極めていくならば、最終的には射精行為さえ無用になってしまうような気がするんだな。『バーバレラ』とか『スリーパー』といったコメディ系SF映画で描かれていた“脳波だけで行うセックス行為に行き着くイメージ”がある。2つの映画には「バーチャル・セックス・マシーン」みたいなものが登場し、未来的なセックス=脳と神経でするセックス、旧時代的なセックス=肉体的で野蛮なセックスと対比してみせる。勿論、どちらの映画も頭でっかちでスノビッシュなセクシャリティを逆説的に嘲笑しているわけだが(ウディ・アレンらしいよな)。 脳波セックスに慣れ親しんだバーバレラ(ジェーン・フォンダ)が旧時代的で野蛮なセックスを体験して真のセクシャリティに目覚めるように、本作は肉体的な快感を僕に喚起してくれる。本能がムズムズ・メラメラと。 まずは、何と言っても、怒涛のパーカッション。強力な音圧でバカスカと鳴らされるパーカッションを軸に全てのアンサンブルが決定しているかのようなファンクビートは、アメリカ産ファンクとは明らかに違う。う〜ん、例えて言うならば、アメリカのファンクはセックスの最中に「そろそろフィニッシュの時間かな…」なんて冷静に考えている状況だとするならば、ファンキン・ラタのブラジルファンクは「イッちゃったら、またヤレばいいんだもんね。俺、何も考えずにヤルだけだもんね」という本能まっしぐらのフィジカルファンク。本能まっしぐらとは言え、緩急のつけ方は実のところテクニシャンですな。メタルギターとかコーラスのつけ方とか知的だしね。 アヘアヘとよがり声を収録した楽曲を聴きつつ、18名(!)の男女メンバーがギッシリと寄り添うジャケット写真の裏表を見つめていたら、この音楽が「繁殖力の強い音楽」に思えてきた。こいつら、笑いながらセックスしまくってんだろうな、などと。実際、「生命力」とビート感やセクシャリティを同一次元で感じさせてくれる音楽ではある。 少子化対策には本作を!
〜名盤山脈 70〜



★★★☆(2005.06.05)
『異常行為(UNORTHODOX BEHAVIOUR)/ブランドX(Brand X)』 人の言う言葉を真に受けていた日にゃあ、世の中は「変わり者」だらけということになる。 が、それほど世の中、刺激に満ちてはいないこともご承知の通り。 つまりは「自己申告の妙」というやつの成せる業でして・・・。 つまり、仲間のことを他者にやや自慢げに話す場合の言葉って往々にして膨らむんだよね。その場に、その「仲間」がいない場合には、「そいつ、空中浮揚するんだぜ」みたいなトピックでない限りはその言葉が信用されることになっている。証明の術が無く、また、聴き手の興味も中途半端だから成り立つ、会話のユル〜い罠。でも、実際に「仲間」に会ってみると、実に在り来たりな人物だったりしてな。自分や仲間を「変態」などと自己申請する言葉に真理があった試しは無い。 つまりは「仲間」自慢の主が、自分および、自分の人脈を「特殊な存在」として際立たせることに躍起になっているわけですね。当たり前だけれども、その時点で、そいつは在り来たりの人物です。 その点、ブランドXは、まじで特殊な仲間であり、変態だなぁ。 やっぱり、僕はベースのパーシー・ジョーンズに注目してしまうのだけれども、既成概念を大幅に逸脱した演奏方法を持ったベーシストが存在していること自体が特殊で変態的なんだが、その存在を求めたバンドの在り方や許容力みたいなものが特殊で変態的。だいたいさぁ、チューニングが3度ぐらい低いんじゃないかと思えるくらいにサウンドがブヨブヨしているよね、パーシーのベース。それは、フレットレスベースの特性でアタックが鈍っていることと、コーラスとかフランジャー系のエフェクトがたっぷりと覆いつくした結果のサウンドであることは理解しているけれども、このブヨブヨ感は尋常じゃない。僕が「三大フレットレス・ベースの達人」と考えるジャコ・パストリアスともミック・カーンとも、絶妙にベクトルが違う。類似性は多く発見できるにも関わらず、決定的にベクトルは違う。音楽性の違いもさることながら、結局はフレージングなんだよねぇ。得意の6連フレーズを多用した指使いが、妙にこもった音を形成。一方、フィル・コリンズのドラムスがシャープで、判り易い。ブヨブヨベースとシャープドラムのコントラストでブランドXのリズム隊はどうにかノーマルの範疇にステイしている。変態を仲間に持ってしまったら、そういう配慮が必要なわけですね。 そして、「変態」とは、一種の悲劇として自覚された上で、苦労の上に公的な価値を生むものなのであって、気安く自己申告したら駄目なのですよ!
〜歌謡曲を聴く104〜



★★★☆(2006.06.05)
『60'sヒットパレード20/V.A.』 『ザ・ヒットパレード 〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』(2006年5月26日・27日フジテレビ)を観て以来、「ヒット・パレードの時代」にエネルギーを感じ、その時代のサウンドを聴いている。 う〜ん、特に深い意味は無いけれども、お守り札を身につけるような、なんて言うか…、そう、おまじないみたいな感覚。 本作収録の歌手陣は、飯田久彦、雪村いづみ、ミッキー・カーティス、スリー・グレイセス、平尾昌晃、中尾ミエ、伊藤アイコ等々。収録楽曲は『悲しき街角』『ルイジアナ・ママ』『恋の片道切符』『G.I.ブルース』『カレンダー・ガール』『悲しき雨音』等々、洋楽を日本語に訳したカヴァーバージョン。3分以内のシンプルな楽曲が的確に琴線をヒットする。楽しい楽曲は楽しく、せつない楽曲はせつなく。楽曲のパワーを純粋に無邪気に信じられる時代なんだな。なんだか、愛らしい時代だ! 訳詞陣は漣健児、岩谷時子、橋本淳、等々。なんだか、ゴージャス! 『恋の片道切符(唄=雪村いづみ/ミッキー・カーティス』の訳詞クレジットが「朝比奈知子・川路美樹」とあって、何か匂うな、なんて思って調べてみたら、雪村いづみの本名とミッキー・カーティスのペンネームだった。なんだか、楽しい時代! カヴァー・バージョンに混じって、岩谷時子&宮川泰の超名作『恋のバカンス』がザ・ピーナッツではなく、中尾ミエのバージョンで収録されている。なんだか、不思議な時代! 不思議と言えば、本作収録楽曲中最も有名楽曲は『可愛いベイビー』『恋のバカンス』なのだろうと思うのだけれども、それ以外の18曲の中に知らない楽曲が無いんだな。いやいや、僕が50年代&60年代洋楽のマニアックなコレクターで、何でも知っているポップス博士である、なんていう事実は一切無い。しかも、本作楽曲の時代に僕は生まれていないから、「オンタイムの記憶」というわけでもない。つまり、日本の土壌の中に当時の洋楽ポップスの根が深く張っていて現在に至っても誰の耳にも自然に聴こえてしまうような構造が出来上がっているんだよね。CMで替え歌にされたりもするしね。今も我々の耳に飛び込む当時のポップスがオリジナルかカバーか、しかも、英語か日本語かなんて、実のところ僕には気にかからない。ポップなメロディとビートと快活な歌声という「塊」で認識されている。これぞ、音楽の底力。3分ポップスならではの単純で明快なパワー。 そう考えると、TV番組『ザ・ヒット・パレード』は日本人のDNAに「ポップスウイルス」を植え付けた、脅威的なテロリズムだったわけですよ。
〜名盤山脈 71〜



★★★(2005.06.12)
『ガズーズ!(GAZEUSE!)/ゴング(GONG)』 どうも、最近、クロスオーバー音源が気持ちいいんだよねぇ。 あ、ジャズロックでもフュージョンでも呼び方は何でもいいのだけど。 この類の音楽を欲する時というのは、特定の心情に固執している時であるような気がしている。 本作の要素を挙げ出しながら、その心情を整理してみようと思う。 まず、音響が好きだ。全体に品良くコンプレッサーがかかった洗練音響が好き。そうねぇ、その洗練が好きな理由は、「その瞬間に鳴っている全ての音が同時に同じレベルで聴こえる快感」という表現に置き換えられそうだ。でもねぇ、他のスタイルの音楽では、そのような快感を求めてはいないなぁ。各パートが同時に聴こえてしまうとうるさかったりするわけでさ。その点で、クロスオーバーは全てのパートが同時に聴こえる快感がある、と。 次にリズムの軽やかさが好き。軽やかって言うのは、まず単純にドラムスの打撃が強くは無い。それは必然的に刻みが細かいということ。ハイハットとスネアの間を行ったり来たりする左右の手が信じられないほどに細かいフレーズを作り上げているのだけれども、これまた信じられないほどにグルーヴが正確(音符的な正確さではなく、グルーブとしての正確さ、ね)。そんなドラムスとベースのコンビネーションは寒気がするほど正確無比。アクセントは完璧に一致。この快感は、なんと言うか、内腿(うちもも)に響く。下から上に向かって軽く「ゾゾッ」と。 更にエレピが加わって、小節終わりにぴったりとアクセントを揃える瞬間には、左右の内腿から上がってくる「ゾゾッ」がお股を目指すものであることに気付く。いわゆる、「お股がヒュ〜ッ」の準備が整ったことを知るね、僕は! 本作の特性と言えば、アラン・ホールズワースのギターってぇことなのだろうけれども、僕はヴィブラフォンやマリンバの多用だと思うな。これらの打楽器が細かく刻む響きは的確にフェザーなタッチをお股に直撃させますね。いわゆる「金玉に指先でツツツーッ」ってやつ。これが肛門に向けて駆け抜けるようなハイテクニックな快感に僕は悶えますね。 本作は下半身に直撃しますね、ええ! でもね、永遠に射精はさせてくれないタイプの微タッチ。 サウンドが下半身をタッチしてくれるだけでなく、あまりにも狂いの無い演奏の完璧さに対して、僕のお股がヒュ〜ヒュ〜しているのも事実。 そう、厳しく訓練された技能者へのリスペクトと、そのイメージを自分にシフトしたい心情の時に僕はクロスオーバーを聴く。 それは、僕が誰かにお股をヒュ〜とさせるための条件を整えるためである、とも言える。
〜歌謡曲を聴く105〜



★★☆(2006.06.12)
『NEW BEST/井上順』 作家陣がすごい。作詞は阿久悠、山上路夫、安井かずみ、永六輔、島武実、なかにし礼、井上堯之(!)等々。作曲は都倉俊一、筒美京平、小林亜星、かまやつひろし、大野克夫、宮川泰、宇崎竜童、小田裕一郎、井上堯之(!)等々。 ビッグな作家が雁首揃えている上に、スパイダース人脈も勢揃いだ。 スパイダース解散後、ソロシンガーとしてマルチタレントとしてリスタートをきった井上順(または井上順二)は絶好調なトップスターだったのであって、堺マチャアキとの格差なんて全く無かったわけなんですよ。だからこそ、これだけ豪勢な作家陣を取り揃えて音楽活動を行えたわけなんです。 しかし。 しかし、だ。 本作を聴いていて、何と言うか、その、豪勢に聴こえないんだよね…。作家陣の個性が全く出て来ない、とでも言うのか、そう、全部の楽曲が井上順の器の中にキチンと納まっていて、作家性は全く見えない。聴こえてくるのは。純粋に井上順。歌手の個性が背後の作家の個性を圧倒的に上回るという事態は、まぁ、それは歌手冥利に尽きる、とも言える。言えるだろう、しかし。。。 う〜む、そろそろ、歯に詰まったモノを出しても良いでしょうか? はい、出します! どの楽曲も、同じ条件下で制作され、同じ性格を持っているんだよな。その楽曲の性格が井上順楽曲の個性になっているように思える。その条件とは何か!? 「音域」ですよ。井上順楽曲は、それはもう致命的に音域が狭いわけなんですよ。サビでトーンっと高いところに行って盛り上がるわけには行かないんですよ、順ちゃんの場合。 結果的に、まるで鼻歌のように軽やかに歌う順ちゃんの声と、鼻歌に最適な楽曲群という性格がストレートに聴こえてくる。そして、その音楽性は「ハッピー指向」といった性格に見事に差し替えられていることに気付く。その指向性(=商品性)こそが、井上順の個性(価値)なんだよね。勿論、作詞家は順ちゃんの個性を重視した上で、楽曲にハッピーな指向性を与えるべく、プロの仕事をしている。 そう、作家陣は実にプロの仕事に徹している! こういうプロの職人仕事って僕は好きだ。リスペクトする。 『昨日・今日・明日』『幸福泥棒』等、都倉俊一楽曲でサウンドアイコンとしてトランペットが鳴り響く演出が、実にプロ! 個人的なベストソングは『ラブソング』

【メレンゲでGo!! HOME】  『メレンゲ今週のCD』

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