〜歌謡曲を聴く106〜

★★★☆(2005.06.19)
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『回帰線(TROPIC OF GRADUATION)/尾崎豊』 ある時期、東京は中央線の某駅の北口と南口に尾崎豊の楽曲を歌うストリート歌手がいると聞いて、見物に行ったことがある。それはもう見事に歌唱法を模倣した尾崎クローンだった。その2人の名前は知らないが、さしあたって「尾崎A」と「尾崎B」だ。毎週金曜日には第三の尾崎「尾崎C」も出没するという。いっそ、「ザ・尾崎ズ」でも結成すればいい、などと茶化していた。あれは、尾崎の死後数年目のことだったと思う。 クローンを生み残すまでに影響力を持ち、実際、ニッポンのポップスにひとつの潮流を作った尾崎豊ではある。その歌を心に今も生きている熱烈なファンは多いだろう。まるで聖書のように信者に道を説き続ける尾崎の歌。音楽に限らず、今の日本にも「尾崎的」な匂いの「行い」や「言論」は多い。そして、その大半に僕は訝しさを感じている。自分のピュアネスをとことん守りたいがために、未熟な現状を社会への批判に摩り替えてしまっているような論旨が多く、このタイプが「愛」とか「夢」とか「平和」といった概念をまさに概念のままにオボロゲに抱いてしまうと性質(たち)が悪い。オボロゲな目標に意識が向かっている「正義」と、日々連続するだけの日常がプロセスとして自己承認されてしまい、完全な自己完結を見るわけだ。もちろん、社会には何の貢献もしていないが、そいつは社会自体を否定・批判しているわけだから、やはり「正義」は損なわれない。そして、そいつのピュアネスはまさに汚れなき形状で保存される。 おまえは「チリひとつ付着していない清潔な間抜け野郎」だ。 全然僕の趣味の範疇に無いとからかわれながらもそれなりに聴き込んだ本作を20年ぶりに聴いた。 うん、やっぱり、僕の記憶は間違っていなかった! っつうか、尾崎信者達の「尾崎の解釈」が間違っているよ! 本作に収録された言葉は大きな振れ幅を持っていて、その幅の中で巧妙にバランスが取られている。社会性を否定する歌と、社会性を獲得した第三者への賛美が並列で並び、まるで自分の青臭いピュアネスを自虐的に曝しているようにも聴こえる。デジカメで日常の場面を切り取るように刻み込んだ私生活的な歌の中に、概念で頭でっかちになった言葉が混在している。名曲とされる『卒業』『シェリー』は基調が問いかけで、未熟な立ち位置の暴露と、ささやかな結論が対比される。角度を変えたら見え方がまるで変わってしまう騙し絵のようなアルバムだ。 これは、尾崎が聖書作成において隠し込んだ暗号だったのではないか。信者の勘違いをも想定されたトリックのような…。 とは言うものの、自分の歌がある種の否定の対象になることを尾崎が望んでいなかったのだとしたら、ニートの大量発生の種を蒔いて社会への復讐を成し遂げたとでも言いたいのか? そうじゃないだろ!
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〜歌謡曲を聴く107〜

★★☆(2006.06.19)
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『BLUE: A TRIBUTE TO YUTAKA
OZAKI/V.A.』 1985年11月14日の代々木体育館。尾崎豊10代最後のライブが行われ、僕はこのライブ会場にいた。 日比谷野外音楽堂アトミックカフェでの「飛び降り事件」の映像を見てしまってから、尾崎豊が気になって仕方がなかった。音楽的には擦り合うものが無かったけれども、歌詞を読みながらレコードは丹念に聴いていた。ライブでは、もしかして伝説に残る「事件」が起きるんじゃないか、なんていう下世話な好奇心もあって、観たいという意思を表明したら、アッサリとチケットが手に入った。 会場では奇妙な光景に満ち溢れ、僕は最後まで居心地が悪かったなぁ。 まずロビーで売られていた「尾崎グッズ」。「OZAKI」の「Z」の文字を強調したタオルは、まるで「YAZAWA」だったし、「尾崎ストーン」なんていうただの石ころが、まるで尾崎が「夜の校舎」の「窓ガラス」に投げ込んだ石のように(シングルジャケットのデザインが石を投げる瞬間の尾崎の写真だったんだっけ?)演出されて売られていた光景には吐き気がした。その石を買った奴は、とりあえず学校の窓に投げ込むのかな? 『卒業』って、そーいうことを啓発する歌なの? そして、観客の顔が皆同じに見えたっけな。僕の偏見による誇張を自覚した上で言うけれども、優等生的な顔つきの若者の大群という印象だった。学校をドロップアウトして働きながら尾崎に共感しているようなタイプの人間も紛れ込んでいたはずだとは思うけれども、僕が目にした大半は脳内ドロップアウトで理屈をこねあげるタイプばかりだった。それは男も女も。彼等の代行者が尾崎豊なのであって、彼等は安全圏で尾崎を脳内シュミレーションしているだけのような不快な印象。 ライブでは観客がいっせいにコブシを振り、最後尾に近い席の僕からは統制されたマスゲームのように見えた。手を振らない僕を周囲の観客は訝しそうに批判がましく睨みつけた。 そして、終盤のMCで尾崎は言った。 「俺を笑いたい奴は笑ってもかまわない。でも、俺を信じる奴は俺について来てくれ」 僕は大声で笑ってみたかったけれども、隣で涙ぐんでいる見知らぬ少女がいるのにそんなことが出来ようか。 ともかく、その日を境に、僕は尾崎の音楽とは別に存在する「尾崎の周辺の事情」に不信感を抱き続けている。そもそも尾崎豊の音楽は個人が個人として向かい合う構造になってはいまいか? タオルや石ころやマスゲームとは最も遠いところに在るのではないか? 本作は尾崎豊のトリビュート。不思議なくらいに深さが感じられない。 これらの楽曲を扱えるのは尾崎豊ただ一人だったのであって、「尾崎の周辺」がしゃしゃり出ると碌な事が起こらないという実証か。 |
〜音楽が聴こえる
9〜

★★★☆(2005.07.03)
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『Fighting80/パンタ&ハル(PANTA&HAL)』 ようやく本作を観ることが出来た。 満足感と同時に若干の戸惑いも。 そりゃあ、パンタ&HALが動いていて、既存の音源とは別バージョンのライヴ音源を聴くことが出来るわけだから、嬉しいに決まっている。パンタ、(顔も声も)若いしね。 しかし。 しかし、だ。 80年代の初頭って言うのは、随分と昔なのネ。そりゃあ、約25年前なんだから、昔に決まっている。4半世紀前だもの。しかし、僕の中ではパンタ&HALの音楽はパリッパリの鮮度で保管されていた音楽なんだよね。聴くたびに研ぎ済まされたエッジがピリピリと耳に浅い傷を作り続けてきた。 しかし、映像とは残酷なもの。 そこに映る空気の古さに思わず気持ちが後ずさりしてしまった。パンタを含むHALメンバーの見てくれの古さ(ダサさ)、観客の古さ(ダサさ)、番組主旨の古さ(ダサさ)にちょっぴり背中が寒くなる。最初に飛び込む情報が古さ(ダサさ)であるが故に、なかなか気持ちを載せることが出来なかった。オープニングは『マーラーズ・パーラー』で、しかも、『TOKYO
NIGHT RIGHT』と同じバージョンであるわけで、もう初っ端から沸騰必至なのに、しかし、僕の背中はちょっと寒い。パンタって、歌う時に、こんなに表情を作る人だったんだっけ? ちょっぴり、照れくさい。まるで、「ロックシンガーの型」をぎこちなく演じているみたいで…。見なければよかった「パンドラの箱」を開けてしまったのかな、と軽く後悔し始めた僕は、しかし、ある一瞬に確かに精神が沸騰したわけなのさ。それは、まるで、25年前の精神のように沸騰した。それは以下の歌唱において、だ。 「♪東京タワーに裏切られ/桜田門に蹴飛ばされ/雷門にからまれて/そそくさ逃げ出した****♪」 この伏字の正体はパンタ信者だったらば誰でも知っている。オリジナル版では「AICK(アイクク)」と歌われ、ライブ盤では「KCI*」と記され、パンタの声が不自然にカットされている(観客の声はハッキリと聴き取れるんだけどね)。本作では、パンタの声がハッキリと叫ぶ。「KCIA!」 ついに商品化されたんですね。DVDだからレコ倫の包囲網を免れたのだろうし。 その瞬間以降は『ルイーズ』で青筋立てて、『つれなのふりや』でパンタに舵を任せ、『屋根の上の猫』で僕達は抱擁する、というフルコースを満喫。 パンタはこの時期、確実にカリスマだった。そのピークと推移を我々に明確に示してくれた点でパンタは誠実な表現者だったと言える。 映像で再確認できる抑制されたHALの演奏も素晴らしい。しかし、このバンドとコンセプトを復活させなかったパンタはやはり誠実だったわけだ。 |
〜音楽が聴こえる
10〜

★★★(2006.07.03)
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『帰って来たヨッパライ/監督:大島渚』 『帰って来たヨッパライ』は自主制作原盤のままメジャーからシングル発売され、結果、260万枚の超ビッグヒットとなった。それは、まさに日本音楽業界のパラダイムが明確にシフトした事件だ。音楽制作の在り方、商品がリーチを持つ工程において、天地がひっくり返るような激変の瞬間だったに違いない。もちろん、自作自演歌手がビッグヒットを放つという構造が、日本におけるビートルズ的現象を単純にイメージさせたことも、パラダイムの異変であったには違いない。 フォーク・クルセダーズを聴き込むにつけ、その印象は「ニッポンのビートルズ」というものになるわけなのだけれども、そうなると“人気歌手の映画主演”という類似点に思わずニヤリ。ヒット作を映画タイトルに冠するなんざ、類似どころか一致だ! しかし、本作はビートルズ映画とはまるで違う。 まず冒頭の映画導入部でタイトル曲が流れるわけなのだけれども、フォークルの3人が演じる意味深な芝居によって、完全に映像のBGMと化しており、タイトル曲をじっくりとリスニングする機会は全く我々に与えられていない。第一、フルコーラスかからないしね。自分の「死」が他者の思惑に委ねられ翻弄されるといった大枠のストーリーは、一応、タイトル曲の歌詞に合致するわけなんだが、まぁ、それは最低限のファンサービスというものだろう。ヒット曲と歌手の知名度と人気にあやかった「アイドル映画」としての最低限のマナー、と言うか。 そんなワケで(←『帰って来たヨッパライ』の節で!)、この映画から聴こえてくるフォークルの歌は唯一絶対に『イムジン河』だ。朝鮮大陸からの密航者に生命を握られてしまったフォークルの3人が逃走中に『イムジン河』を歌い始めるシーンは鮮烈で、加藤和彦が街頭で「あなたは日本人ですか?」とインタビューを繰り返し、「いいえ韓国人です」と否定される場面や、フォークル自身が「俺達は韓国人だ!ニッポン人じゃない!」と錯乱する場面と韻を踏む。 『イムジン河』は朝鮮総連からの圧力と、発売メーカーの自主的な規制によって発売中止の処置を受け、長く封印されてきた楽曲。当然、この映画も封印されてきた。 北朝問題喧しい昨今、封印を解かれた『イムジン河』と本作は、当時に込められた意図とは別の意味を持ってモワッと立ち込める。 これもまた、パラダイムのシフト、なのかな。 |
〜Drive
to 80's Vol.75〜

★★★☆(2005.07.03)
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『イースター(EASTER)/パティ・スミス・グループ(patti
smith group)』 女性の「花の命」が短いのか否かはさておき、ピークを持ってしまう女性は確実に存在する。ここで言う「ピークを持ってしまう」とは、そのピークは終わってしまうという意味だ。(ピークの高さが持続すれば、それは「ピーク」ではないわけですネ) 不謹慎な話をさせていただく。最近起こった、とある地方の児童殺害事件。娘を事故(?)で失った母親が容疑者として逮捕され、その素性をスキャンダラスに報道され続けているわけなのだが、逮捕時に33歳の容疑者の遍歴をその顔が写り込んだ写真で見ていくと、確かに彼女にもピークがある。19歳〜22歳ぐらい(つまりは高校を卒業して、結婚準備が社会的・精神的・肉体的に整った年頃)の彼女には強いアピールがあり、そのアピールを他者にアプローチするオーラがある。その状況を角度を変えて見つめてみれば、結婚欲求過多の「欲しがり屋さんオーラ」でもあるわけなんだが、しかるべき立場の人間のモノ欲しそうな態度とはすなわち、同じ目的を持つクライアントにとっては「価値」であるに違いなく、まぁ、面倒くさい言い方を連ねているわけだが、ぶっちゃけ、「結婚適齢期」の女性には特別なオーラが立ち込める。そのオーラは時に女臭すぎて、うっとおしさを感じさせもするし、当人の思惑とは別に周囲を悲劇に導くパワーをも内包する。結婚適齢期の高齢化や、低年齢のできちゃった婚など、「適齢期」の範疇が大きく変動しているのも事実だろうけれども、そのことと、オーラ大量放出期のサイクルは無関係であるように思う。 オーラ放出期を終えた女性には様々なタイプがあり、もう、結婚も出産も完了してオーラの必要性も無く生きていくタイプもいれば、底をついたオーラの余力に疑念を抱きつつもオーラ全開の記憶で悲劇的に生きているタイプもいる。 さて、パティ・スミスだ。 この人にオーラ放出期はあったのだろうか?
そりゃあ、ニューヨークではモッテモテだったわけで、多くの「NY型芸術家」にとっては、なんとしても寝たい女だったのだろう。しかし、その本質が「適齢期型オーラ」とは無縁のような気がする。誰もパティに自分の子供を産んで欲しいわけじゃなかった、と言うか。 実を言えば、僕は、そういったパティの魅力がなかなか理解できず、容姿も音楽も植物的なパティの風情に「女」を感じにくかったので、NYの芸術家さんの気持ちがわからなかったのだが、今ならば理解できる。 パティ・スミスの瞳に自分の顔を映してみたい。そんな気持ちだったのではないか、と。 『ビコーズ・ザ・ナイト』の達観とは、パティ・スミスの宇宙規模のオーラであり、性愛的魅力なのだ、と。 |
〜Drive
to 80's Vol.76〜

★★★(2006.07.03)
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『ツイン・ベリーベストコレクション1984-2002-->/パパイヤパラノイア』 実を言えば、ちゃんと聴いたのは今回が初めて。80年代中盤から、こういう音楽をやっていた女性アーティストの宿命とは言え、まずはゼルダ、戸川純、水玉消防団なんかを思い出してしまい、それは、つまり、なんと言うか、おほん、え〜、そのぉ、今聴くと、う〜む、痛い。何もそんなに「変」である必要は無いと思うよ、などと突き放して関係を終わらせたい気分だ。いや、しかし、あの時代において、こういった音楽は決して極端な異端ではなかった。こんな音楽はライブシーンには飽和していた。戦後の令嬢みたいだったり、着物だったりするコスチュームの(あんまり綺麗ではない)女の子が、気狂いを装ったかのような無表情で、幼児退行したようにたどたどしい発声で抑揚の無い言葉を垂れ流し、童謡のような楽曲をチンマリとバックアップしていた下手糞なサウンドが一転して痙攣し始める。そんなバンドが腐るほど存在した(今もいるよな)。ま、絵に描いたような「病気ごっこバンド」ってわけですね。 パパイヤパラノイアはそんなバンドとはちょっと違う。病気ごっこな童謡型+痙攣といった楽曲もあるけれども、ハードファンキー型など音楽の振り幅は広く、音楽性が高い。なんたって、演奏が上手い!
20年後に聴いて、演奏の不味さに耳が萎えないインディー系バンドって稀有だぜぃ。本作に特典的に収録された初期のカセット音源『おじさんよってって』やヤマハポプコン(出てたのか〜!)出演時のライブ音源『貴婦人の散歩』のサウンドが既にして骨太。アンサンブルの要点を充分に理解しているアレンジであるため、当時ならではのサウンドが決して恥ずかしくはない。単音シンセのフレージングや音色は素敵だし、時代のサウンド(ポリスとか)の影響をサラッと反映させる等の枝葉もスキルあってこそ。 最終的にデジタルロック系に変貌した現在に至るまで、サウンドを徐々に変容させていく過程の中で音楽の質感は不思議と変わらない。一貫している。そりゃ、同一人物が作って歌い続けている音楽だから当然ではあるのだけれども、僕には一種の頑なな意思を感じさせる。石嶋由美子の歌詞を読み、ベースを聴き、歌を聴いていると、何て言うか、潔癖な魂を感じる。変わらないことで殉じる志というのか。 僕には、その潔癖さが痛い。初期の痙攣音楽に対して胸を張り通せる潔癖な魂が痛い。それは石嶋への嫉妬や羨望なのか、軽蔑なのか判断出来ず、モヤモヤと葛藤する僕の心の痛みに他ならない。 |
〜グレイテストな
ベスト 32〜

★★★☆(2005.07.24)
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『ピンク・フロイドの道(RELICS)/ピンク・フロイド(PINK
FLOYD)』 シド・バレット死す。 このニュースを、なんとなく、漠然と、淡々と、情報として処理してしまった自分がいる。「そうか、シド・バレットはつい先日まで生きていたのか!」と驚いてしまうほどに、僕の中にシドの居場所は無く、つまり、僕とシドは隔絶されて久しい仲でもあった。 『狂ったダイヤモンド』 なんて言うか…、僕は、そういった物言いが好きではないんだな。ネガティブにシンボライズされるカリスマってのが好きじゃない。自殺や変死や若死にによってカリスマ性を確定した音楽家を、それが原因で認めるような精神性も嫌いだ。ジム・モリスンもマーク・ボランも生前の作品とのみ純粋に向かい合えばそれでいい。ジョン・レノンが凄いのは「射殺されたから」ではない! 同様にシドの音楽を、彼の破壊された精神と常に結び付けなければならない論調には閉口する。オマエはそんなに「絶望」や「悲劇」に憧れているのかよ?
実際にやってみると惨めだぞ。 例えば『星空のドライブ』で展開するアバンギャルドでサイケな演奏は、実のところ、まともな精神でなければ演奏できないといった類の表現だと僕には思える。ドラッグ体験をサウンドに転嫁した楽曲であっても、転嫁の作業に音楽家としての意識が正しく作動しているわけで。頭の中に爆音が鳴り響いてしまった人間が外部に音楽を鳴らす必然なんてあるわけがないわけで。 全てを「ショービズ界の魔法」として処理するつもりは無いけれども、芸能人のエキセントリックな在り様は、どこまでをリアルに受け止めてよいものなのか、実に微妙。 生前の“まともなシド・バレット”と向かい合いたくてディスクを探したら、驚いたことにCDは本作しか所有していなかった。そっか、2枚のソロを僕は必要とせずに生きてきたのか。ピンク・フロイドのファーストアルバムさえも。 『アーノルド・レーン』『シー・エミリー・プレイ』『バイク』の生暖かい空気が心地よい。聴き手の耳がこの音楽に甘えられる実情以上に、シドがこの音楽に甘えたかったのではないかと思える音の重なりだ。タオルケットの上にはお気に入りの毛布を、その上には羽毛布団、更にかいまき、3種類の枕を並べ、これさえあれば安眠可能なぬいぐるみを左右にはべらせて…。夏であろうが、この重層的な寝具によってようやく安眠に至ると信じているかのような音の連なり。特にオルガンが甘えを許容しているような気がする。優しいママの子守唄だね。 シドの精神とは別に、彼の音楽が僕の甘えを許容してくれるママや毛布の役割を果たしてくれることこそがありがたい。 |
〜ワールドサイド
を歩け!! 51〜

★★★☆(2006.07.24)
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『Viva Mamanera/マウマウ(Mau Mau)』 個人的な性生活(「プライベートなセックスライフ」とどちらの言い回しがエロいかな?)というものは、個人的であるがゆえに成立しているわけで、これを情報的に他者と共有しようとした瞬間にハレーションが起きることは多々ある。 この類の話で、僕にとって、最も印象深かった逸話がある。そう、あれは“やりたい盛り”の頃だった。僕もそうだったし、仲間も毎日毎日セックスに励んでいた。「最後にしたセックスっていつ?」と問われたならば、誰もが「3時間前」などと答えたような時期。“やりたい盛り”のガキ共は品格の無い会話が大好きで、互いの性生活を告白し合ったりなんかする。ま、その目的は第一に自慢、第二に誰かの方法を自分の性生活に取り入れること。しかし、その情報交換は概ね同次元のものであって、結局、自慢にも情報取得にもならないことを僕達は悟るわけですね(こういう時期をまともに過ごせば、いつまで経っても自分の経験をさも特殊なことのように自慢する人間の未熟さは目につくわけですよ)。しかし、M君の経験だけは少し違った。M君は自宅住まいだったこともあって、必ずラブホを利用していた。ラブホの風呂は他人が掃除する他人の風呂場だからして、どんな汚し方をしても道徳的な後ろめたさは残らない。M君のカップルは互いにオシッコをかけあっているのだと言う。その話をM君はあまりにも普通の顔で語った。それを聞いた僕を含める数人の表情の異変に気付いたのだろう、M君は「え?
まずかったの?」という表情を一瞬だけ見せて話題を逸らした。聴き手数人の表情はそれぞれに複雑だった。友人の性癖を知ってしまった照れ臭さもあっただろうし、「変態!」と嫌悪した奴もいたかも知れない。「その手は次に使えるな!」とほくそ笑んだ奴もいたかも知れない。 ともあれ、個人の性生活が公的に流れ出てきた瞬間に我々は軽く目眩を感じる次第だ。 マウマウが雑食的に行うミクスチャーの本質が僕には極めて個人的な性生活のように思える。ジプシー系やトラッド系や南米指向のテイストがロックのラウドサウンドで掻き混ぜられているその音楽性がセクシャルで、かつ、その手法が性生活的。しかし、本作を聴く僕は照れ臭くはないなあ。同じことを僕がしたとして、誰かに知られたら恥ずかしく感じてしまうかも知れないけれども、マウマウの音楽は照れ臭くない。 マウマウは自分達の行いが他者にも共有されることを信じている。同じ快感が得られるものと無邪気に信じている。 こういうモチベーションは大事だぞ。まじで。 |
〜Drive
to 80's Vol.77〜

★★★☆(2005.08.07)
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『リメイン・イン・ライト(REMAIN IN LIGHT)/トーキング・ヘッズ(TALKING
HEADS)』 夏はエスニック! エスニック料理のスパイスは減退した食欲に活を入れつつ、身体の調子を整えてくれる。辛ければ辛い方が効果がありそうな気がする。タバスコの辛さではなくて、スパイスの辛さが重要なのね。リラックスした着心地を求めて東南アジア系のファッションを取り入れるのもありだろう。クールビズなんつって似合わないカリユシウェアを着て御満悦の自民党議員も一種のエスニック愛好家ではあるのかも知れない。 夏はエスニックだよね〜、なんて思いつつ、実際の夏に僕が享受している衣食は圧倒的にドメスティック路線。 近年の夏を振り返ってみても、ソーメンはよく食べているけれども、真夏のベトナム料理には一度も食べていないし(食べるのは冬だったりするんだよね)、暑い日にはジンベエを着て過ごすし。 ・・・となると、僕にとっての「夏はエスニック!」の論拠が疑わしいわけだが。せいぜい、辛めのカレーを食べることぐらいのような気がしてきた。っつか、その程度にしか、エスニックを味わっていない! う〜ん、「夏はエスニック!」とは、僕の頭の中に刷り込まれた一種の幻想なのかもな。勿論、「夏はエスニック!」を実践している人達は確実にいるのだろうけれども、彼等に対しては、「アジアンテイスト」なんつってインテリアをバッチリと決めて生活感無く暮らしている人達に対して感じる距離感と同質の噛み合わない感覚があるんだな。うん、正直に告白すれば「けっ!」という感情がある。「夏はエスニック!」などという生き方自体がスノッブではないか!などと軽く毛嫌いするくせに、心のどこかで僕はそんなライフスタイルに憧れてもいるような気もする。しかし、その程度のモチベーションでは、結局のところ、行き着くのは「辛めのカレー」が関の山だ。 さて、本作と夏の親和性は? リリース当時の夏、原宿でウンザリするくらい本作の音源を聴いた。地元も友達も本作の話題で持ちきりで、世を挙げてのブームだった。そんなわけで、全天候型&全季節型の低湿度音楽であるはずの本作には個人的に夏のイメージが強く、本作の洗脳によって僕は「夏はエスニック!」と素直に思い込んでいるのかも知れない。16年後の本作は意外にも古びていない。実にモダン。あの頃、僕等がその新しさに目眩を感じて夢中になった理由が今でも手に取るように理解できる。80年はとびきりホットな夏だったのだ。 しかし、無邪気な年齢でもない今の僕には、本作に若干鼻につくスノッブも感じてしまうわけでして。つまり、この音楽を「エスノ」だなんぞと頭で理解しようとする自分の感性の劣化が問題であるわけですね。「エスノ」を「エスノ」と括りさえしなければ全ては解決。 そう言えば、フジロックの会場で汗をかきながら頬張るクイーンズプレートは極上の夏食だが、アフリカ料理であることを僕の頭は考えていなかったはずだよな。 よ〜し、激辛料理で活を入れっか! |
〜歌謡曲を聴く108〜

★★☆(2006.08.07)
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『リフレッシュ(Refresh)/セイボー(SAYBOW)』 実はTENSAWをほとんど聴いたことがなくて。TENSAWファンは実に熱くTENSAWを愛していて、アーティストとファンのこういう共犯関係は幸福なのだろうなと羨ましくなってしまう。あ、いや、僕はTENSAWファンの感覚を共有できないだけであって、例えばビートルズとの共犯関係はダイヤモンドのように硬いわけで、その感覚を理解することは出来るわけですけれどもね。でもさ、TENSAWには横浜という絶妙に伝説性を高める使場があるわけでして、僕はリバプールには行ったことも無いわけでして、やっぱり、共犯関係というのは絶対的な使場においてそのアーティストと具体的に向かい合う行為が必須なのだとは思うですよ。 ゴールデン・カップス以来伝統のある横浜にあって、リレーのバトンタッチのように「象徴」を受け持った次期を確実に持つTENSAWなのであるからして、その存在が「象徴」的であることは然り。 そんな僕の思いは全て後付けで作られたものであって、実際にはセイボーというキャラクターへの興味が先行していた。例えば、セイボーのこんな発言が興味深かった。「ジョン・レノンが死んで、世間がジョン、ジョンって言い始めて、ジョンが一番偉いみたいになっちゃったじゃん。そん時、俺はポールを好きになろうかなって思ってさ。ポール的な音楽を積極的に取り入れたんだ」 うん、僕はすっごく理解できるなぁ、こーいう考え方。僕もそうだったし。また、セイボーは細野晴臣の熱狂的なファンだと言う。テクノが大好きだ、と。悪ガキみたいな風貌だけれども、瞳がむちゃくちゃシャイな印象。半ば意識的に、半ば無意識に自己イメージを乱反射させ、自分自身がその乱反射の中で錯覚することを満喫しているのだろう。言ってしまえば、それは青白い文学青年的&モラトリアムなキャラクターなのであって、TENSAWファンが求めているのはもっとタフなイメージなのではないかと心配になってしまう。 本作もまた絶妙で危ういバランスの中に立脚している。 基調はブルース、および、R&B。太い声質でシャウトをまじえるボーカルはタフでロック的だし(『ARASHI』のボーカルってスティーヴン・タイラーにそっくり!)、歌詞もワイルドなロック系。ところが、歌詞も音楽も声もどこか内省的。打ち込みの多用も含め、熱心なTENSAWファンの期待とは微妙なズレを持ったディスクなのではないかと思える。彼等が本作を横浜で聴いたならば、その違和感はより際立つのかも知れない。 横浜でTENSAWを聴いた経験の無い僕には、塩梅の良いアルバムなんだが。個人的には『MR.JUNIOR』の線で1枚を聴き通してみたい。 |