〜カリスマの遺言
13〜

★★★★(2006.08.21)
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『噫無情(レ・ミゼラブル)/あがた森魚』 この当時のあがた森魚は大ヒット楽曲を持つシンガーソングライターなのであって、しかも、シンガーソングライターとしての特性は「大正ロマン」だったりして、なおかつ、その人脈は早川義夫まで遡りつつ、はっぴいえんど&はちみつぱいで着地する豪華絢爛なものなのであって、まぁ、つまり、現代の「掘り起こしリスニング」において、話題に事欠かない人なのですね。 作風から推測するあがた森魚像はシャイで神経質な側面と大胆で夢想的な大らかな側面がシャッフルされたイメージ。あくまで、僕の想像ですけどね。 本作には独特の大らかさが漂い、それは主に、デビュー作『乙女の儚夢』との対比によって僕の中で際立つ。レトロな世界観をモダンな手法で再構築するという音楽表現自体の是非が問われたデビュー作は果たして大成功だったわけで、自身が設定した音楽性に対する確信を持った強みが本作には漂い、3曲のカヴァー曲には余裕さえ感じるわけです。しかし、3曲のカヴァーはアルバム構成の中で見事に織り込まれ、楽曲単体のコンセプトがアルバム全体の構成内で微妙に変化をしつつ、他の楽曲と絡み合うような、そんな繊細な構成美を作り上げている。歌詞の言葉ひとつひとつに、メロディのひとつひとつに、アレンジのディティールに、ミックスの機微に、構成に、実にきめ細かい神経が行き届いているアルバム。しかし、その着地は「神経質な音楽」でなく、充分に娯楽的な音楽。社会とはガッチリとコミットする。 あがた森魚は勿論のこと、プロデューサーの松本隆をはじめ、アレンジャーの矢野誠、演奏のはちみつぱい、そして、レーベルのベルウッド、更には1974年という時代が、奇跡的な一致点を見出したかのような幸福なディスク。彼等の「閃き」が高いレベルで実現され、それが商品性を立証していたわけですね。まぁ、誰かの胃に穴が開くような現場だったのかも知れませんけど。 さて、大好きな楽曲の多い本作なのですが、僕にとって格別な楽曲が『組曲
噫無情 嘆きの舞姫(バレリーナ)・イカリの水夫』。ウットリする。ニヤニヤする。ちょっぴり哀しくなって、しかし、幸福な気分で眼を閉じたくなる。「♪おいらはマドロス船乗りポパイだぞ♪」の芝居がかった発声の楽しさが、やけに哀しく渡世人の恋路を炙り出し、最後のリフレインで僕を包み込む。 「♪それではいとおしのひとまたいつか/マドロスなんかに惚れちゃあいけないよ/羅針盤に聴いてもああ無情/森羅万象酔生ああ無情/ああ無情♪」
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〜カリスマの遺言
14〜

★★★(2006.08.21)
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『君のことすきなんだ/あがた森魚』 泣く行為は精神にとって良いことだそうですね。しかし、僕なんぞは、映画や漫画やドラマといったフィクションとか、僕以外の誰かのノンフィクションには簡単に泣いてしまうくせに、自分のこととなると全然泣けないわけなんですよ。成人してから一度も自分のことで泣いていないような気もする。過度のストレスでヤバい状況に陥った時には、確実に泣けるコンテンツを鑑賞して吐き出すように強引に涙を流すこともある。その状況の辛さに自然に泣ければいいことなのにね。 さて、本作のあがた森魚はいつにも増してメソメソしている。 2曲目『いい娘だね』から3曲目『僕は泣いちっち』(80年代に志村けんがコントに取り入れていた古い流行歌ですね。)の流れが対を成し、メソメソ度を増幅している。前者はジャックスのカバー曲、後者はジャックス(っつうか早川義夫)が『ロール・オーヴァー・ゆらの助(原題はくらのすけ)』という楽曲で批判を叩きつけた浜口庫之助の作詞・作曲作品。前者は底冷えしそうにクールでグルーヴィなリズム隊とミュートトランペットをバックに、まるで雪の下から健気に顔を出して春を乞う土筆(つくし)のように前向きな優しさを湛えた歌唱にグググッと気持ちを運ばれる。僕の掌から少しでも暖を与えてあげたくなるような気分。恋の初期段階にいる歌い手への想いに満ちる。一方、後者は、ロボットが人民を管理する近未来共産圏を亡命したロボトミーがナイトクラブに乱入して、メソメソと泣き続けているような、滑稽にして飛び切りに切ないフィニッシュ。まぁ、つまり、ナイトクラブ系の基本サウンドに強引なまでにシンセサウンドが割り込み、これまた強引なまでに泣き虫ボーカルが幅を利かせているわけです。「うわー!泣いてる、泣いてる!」なんて指差してしまいそうな泣き虫メソメソ歌唱が、「僕」を捨てて東京に出て行ってしまった「恋人(orあの娘)」への未練と愚痴だけで構成された歌詞の痛みを最大限に増幅。禁断の配列となった2曲を続けて聴くと、死ぬる想いで成就した恋が外的要因でいとも容易く崩壊する様がイメージされ、極端に表現された歌い手の感情に聴き手の心情が引っ張り込まれる。悲しみを前に泣くあがた森魚は実に健全で、不健全に泣けない僕の代行をしてくれているようだ。 「前衛的なジャズフォーク」として長く愛聴してきた本作は、リズムトラックのバランスが驚くぐらいに大きく、また、全体を通してピアノ(エレピも含む)の存在感が際立つ。ピアノの奏者は矢野顕子。 どうも、あがた森魚以外の音楽家の存在がクローズアップされ過ぎている嫌いが本作にはあるわけなんだが、あがた森魚のディスクって、いつもそういう構造になっているような気がしないでもない…。 |
〜名盤山脈 72〜

★★★☆(2006.09.04)
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『タイム・テイクス・タイム(TIME TAKES TAIME)/リンゴ・スター(RINGO STARR)』 ああ、なんていうことだ! 92年リリースの本作の存在を僕は忘れて生きていた。リリース当時には繰り返し繰り返し聴いていた。しかし、翌年以降で本作を聴いた記憶が無い。それは、つまり、僕が本作を年表上でリアルタイムに置き去りにしてきたということなのであって、つまり、僕は本作を消費したということだ。 う〜ん、僕はせっせと音楽情報を消費し過ぎてきたかも知れない。音楽を「聴き飛ばす」ような行為や、知識の構築を目的に取り入れるようなカタログ的&データベース的リスニングは言うまでもなく野蛮なものだ。『メレンゲ今週のCD』のバックナンバーには、書き手の野蛮なエゴが剥き出しになっているものも少なくは無い。 14年ぶりのリンゴの歌声が、優しく穏やかに、そして、ユーモラスに僕を諭す。 それにしても、本作は素晴らしいぞ。 60年代的、言い換えれば、局所的にビートルズ的なテイストを90年代のモードで再構築しているが、それはギミック的なものではなく、根底に「もう、これで時代が変わろうとも、不滅のサウンドを刻んだ」とでも言いたげな、大らかな作りになっている。そうなんだよね、時代で特別な役割を果たした音楽って、確実に古くなるんだよね。つまり、「消費」を強いるんだ。「ビートルズの音楽がエバー・グリーンだ」という次元とは別にビートルズの音は古い。 ところが本作は、ビートルズを前提とするならば、実に「当たり前な音楽」。とんがっていない。しかし、「当たり前」を「当たり前」に残してくれたことは実にありがたく、また、その表現者がリンゴであることによって、全てが丸く収まっているのが素敵だ。一連のジェフ・リンによるビートルズ仕事では出せない味わい。リリース当時は名作だと騒がれた記憶があるが、ポップス史の年表上には残りにくいアルバムだとも思う。それは言い換えれば、年表上の一点に刻み込む(=消費する)ことなく、日常的に聴くことが出来る音楽であると言う意味であって、だから、僕は自分の本作への態度と行為に対して恥じているわけなんです。 でも、そんなことはお構いなしに、リンゴの声は優しい。僕は、もっともっと、この人の声が多くの人々の耳や心に伝わるべきだと思うよ。『イエロー・サブマリン』や『ウイズ・ア・ヘルプ〜』だけでは全然足りない! 聴き手のみならず、音楽の同業者の愛もリンゴに向けられ、彼等(From
My Friend)の愛(A Little Help)さえあれば(With)、リンゴは堂々と歌ってくれるし、その歌は聴き手を幸福感で満たしてくれる。実に理想的な人物像だ。 僕は、いつか、僕に息子ができた時に、ジョンやポールやジョージ以上にリンゴの素晴らしさを伝えるつもりだ。 |
〜名盤山脈 73〜

★★★(2006.09.04)
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『ニアリー・ヒューマン(Nearly Human)/トッド・ラングレン(Todd Rundgren)』 このところ、「角度」という言葉についてよく考える。 それは、こんな具合だ。 角度を成すものは独立した複数の素材であって、それらは接着箇所を共有する。しかし、両者が接着する位置関係でその角度は決定する。この時に、両者が成す角度に対する相応しい表現は「浅い」とか「深い」だ。 また、こんなイメージを浮かべる。 ひとつの物体Aが運動を伴ってそこに在るとしよう。「運動」とは簡単に回転などのイメージを持てばいい。その物体Aにひとつの小さな固体Bが飛び込もうとしている。つまり、固体Bは回転物体Aの中に入り、物体Aのパーツとなろうとしている。この時には、固体Bが物体Aに飛び込む角度が重要なのだと思う。「入射角」ね。この角度もまた「浅い」「深い」で表現されるものだと思う。入射角が浅いほど、固体Bの損傷は少なく、物体Aにも変動を与えないまま、固体Bはすんなりとちゃっかりと物体Bに取り込まれる。一方、深い角度での入射は危険を伴う。回転運動中の物体に真正面から飛び込むという大胆で無謀な行為なのだからして。何度も弾き飛ばされ、結局、固体Bは入射角を変更するかも知れない。しかし、この角度での入射を成功させた時、固体Bは激しく損傷しながらも、物体Aに対して多大なる影響を与える。 と、まぁ、これらの抽象的な話を、例えばビリヤードの上達法みたいな話に着地させてもらってもかまわないのだが、多分おわかりの通り、これは人間を中心とした「関係性」のメタファーだ。 物体Aと固体Bは、人と人、組織と人、人と物など、様々な関係に置き換えてもいい。 トッド・ラングレンとの出会いにファンはそれぞれに全く異なる入射角を持っていたに違いない。そしてまた、トッドの作品はそれぞれに別の入射角を持って、聴き手の中に飛び込んでくる。トッドの場合、弾き飛ばすような入射の拒絶は考えにくいものの、その接着方法が幸福度を左右するような気がする。 好きなトッド作品は多いのだが、僕は本作には深い角度で飛び込まれてしまったと感じている。ポップな外面に油断していたら、まんまと泣き顔を見られてしまった(=深い関係になられてしまった)ってな関係。人懐っこいが、孤独の意味も共有できる。スタジオ一発録音というリスキーな本作を僕は長く聴いている。この次期に見たライブも忘れられないけれども、何よりも、このアルバムと僕との関係が重要。深い角度でリスクを抱えて入射してきた相手を人は簡単には切り捨てないということだ。 そのことを思いながら、音を聴き、「六本指の人間もどき」のジャケットを眺めると、僕はたまらなく本作を愛おしく感じる。 そう言えば、「角度」はセックスでも重要な要素だよな。 |
〜ワールドサイド
を歩け!! 52〜

★★★☆(2006.09.11)
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『ミネラル(Mineral)/チンバラーダ(TIMBALADA)』 古今東西を問わずパーカッションの響きは聴き手の精神にプリミティヴな発火を促す。そこに踊りが伴うならば、なおのこと。 東京下町で過ごす夏は不思議だ。 毎週のように催される盆踊りの類にまずは圧倒される。いわゆる暦上の「盆」とは無関係に開催され、概ねその着地点は飲酒にあるように見受ける。気兼ねなく酒を浴びるために、盆踊りの和太鼓ビートが必要なのかも知れない。低音が響く「ドドンガドン」が日常的に自分を巣食う自己規制を緩和させてくれるのだとしたら、それは(浴びるように酒を飲む資質の無い)僕にもわからいやすい。まぁ、とにもかくにも、週末になれば、数箇所の神社や学校や公園で同時に夏祭りが開催され、それは8月の間中続くことになる。 そして、真打は浅草のサンバカーニバルだ。 伝統と(幾分かび臭い)「モダンの宿命」を背負った門前町に鳴り響くパーカッションと踊り狂うダンサーの騒乱が不思議なマッチングを見せる。春の浅草名物・三社祭とは別の空気を醸成。26年前に時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎が提案したとされるサンバ・カーニバルだが、当時の机上のプランは単純な足し算みたいなものだったのではないかと推測される。「浅草と言えば祭り。祭りと言えば踊り。世界的に一番派手な踊りと言えばサンバ!」みたいな。しかし、結果的にサンバは浅草にフィットした。 と、浅草を一応は立てた上で、論点を覆させていただく。 浅草に程近い東京下町で浅草サンバカーニバルの当日夜に「サンバ祭り」が開催されている。浅草から流れて来たに違いないダンサーとパーカッショニスト達が商店街を練り歩く。パレードの規模もロケーションの規模も浅草には遠く及ばないささやかなサンバではある。しかし、ここでもサンバは商店街に確実にマッチしている。このマッチという言葉を正しく言い換えたら、「制覇している」ということになるかも知れない。2〜30名の規模から成るパーカッションチームの鳴らすビートは小規模チームのくせになにしろ音が大きく、こちらの耳も思考も完全に、そして心地よく剥奪してくれる。同様に周囲の景色を一変させてもくれる。つまり、サンバはどんな町の光景ともフィットする制覇力をあらかじめ持った音楽だ。 そんな制覇力をポップに昇華させ、世界市場に打って出たのがカルニーニョス・ブラウン率いたチンバラーダ。CDに収められたパーカッションの成りは現場での空気の振動とは程遠いのだけれども、パーカッションのプリミティヴな響きは健在。僕の精神がポッと発火する。 |
〜歌謡曲を聴く109〜

★★★☆(2006.09.11)
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『5−1=0/ザ・テンプターズ』 このアルバムはかっこいいなぁ。 後世にも残り、グループサウンズ時代の極めつけナンバーとしてアーカイブ化されているようなシングルヒット楽曲が多数収録されているにも関わらず、全体の質感は「ロック」だ。なんだか、そこはかとなくサイケデリックで、そこはかとなくグニャグニャしつつ、そこはかとなく重い。しかししかし、歌謡曲中心の音楽市場で猛威を振るっただけのことはあって、キッチリと歌謡曲市場への目配せも万全。いや、「目配せ」っつうか、歌謡曲のテイストを充分に蓄えた資質こそが当時のGS的作曲能力だったのではないかとも思う。英米のロックと日本の歌謡曲だけが音楽の参考書だったとしたならば、その融合はごくごく自然に行われたはずだものね。無意識にさえも、ロックと歌謡曲のブレンド品がアウトプットされたのだろう。それって、今となっては、幸福な時代だよねぇ。 ともあれ、松崎由治の書く楽曲は、ほどよいセンチメントと情念と苛立ちを内包している。 それから、本作はサウンドがいいね!
いいね、ったらいいね! バンド・サウンドだよね。しかも強力なグルーヴがあるんだわ。ドラムスとベースが実にグルーヴィで、それは「不良っぽいビート」だと感じた。いつの時代もダンスに夢中になっている十代の少年は不良に決まっている、という意味で不良。ファズの効いたギターが爆発する『きどったあの娘』のかっこよさったら…。リフの構成が似ているなんていう指摘をさんざんされたのだろうから、敢えて対比しておくけれども、『プリティ・ウーマン』よりもヤバさのファクターが過多。何て言うか、「決め損ね」の分量が全体の「決め」になっているような、それこそ、「ロックの理屈」によってヤバくて、かっこいい楽曲だ。ジャックスの演奏で聴いたとしてもかっこよかっただろう。 ショーケン以外のメンバーもソロで歌っているわけなのだけれども、微妙に味の違うショーケンが5人いるかのように、大きな差が無いのな。クレジットを見ずに流し聴きしていたら、どの楽曲もショーケンが歌っていると思ってしまいそうだ。っつか、僕は思っちゃう。メンバーの声が似ているせいか、ユニゾンコーラスは迫力があるのだが、和声的ハーモニーパートの魅力は明らかに薄い。タイガースのコーラスは声質の差があってこそだったのだと逆説的に改めて実感。 本作はまとまりが良く、スムーズに聴き通せるが飽きは来ない。しかも、お芸術ぶった臭い匂いもしない。これは理想的なGSアルバムだぞ! |
〜Drive
to 80's Vol.78〜

★★★☆(2006.09.25)
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『ニューズ(NEWS)/泉谷しげる』 80年代前半の空気がヒリヒリと突き刺してくる傑作。パンタ&HALの質感に近いかも。 パンクサウンドではないし、ニューウェーヴサウンドと割り切ろうにも、英米のお手本サウンドと絶妙な差異を感じさせる純然たる「日本製ニューウェーヴ」。無機的であることだけを過激に目論んだようなバンドサウンドに乗って、泉谷しげるの声が人肌の温もりを放出するわけだが、それは環境温度の低さから感じ取れる温もりなのであって、この次期以外の泉谷の音楽に比べたらかなりの「低血圧歌唱」。紛れも無い泉谷の声なんだが、妙に客観的で冷めている。そんな姿勢で「オンラインの女 まかされている指」なんていう先取りフレーズを呟くように吐き出す様にはドキッとしてしまう。シャウト歌唱が来たかと思えば、それはフリクションやスターリンを思わせる痙攣系シャウトで、「裕福の飢餓/平和の飢餓/安定の飢餓/肥満の飢餓」といった記号的な歌詞を無機質に叫ぶ。10年早いラップとも言える『超大国乃危機』に顕著な「客観目線での警告を軸とする社会性」も実に80年代的。客観性と記号的文言の羅列が結局は「スタイル」や「モード」としてオブジェのように切り取られてしまう印象は、80年代前後の社会的ポップスと同様の欠落感がある。ただ、泉谷の芝居っ気たっぷりの声と日本語によって、僕の耳には若干でも客観性が薄れる瞬間がありがたい。その意味でも、このアルバムを82年に聴きたかったな、と強く後悔している。あ、実は最近初めて聴いたんスよ。82年当時に聴いていたなら、僕は本作をポップグループの脈絡で聴いたかも知れない。いや、じゃがたらの脈絡か?
ずばり、パンタ&HALか? きっと、本作が当時の僕のフェイバリットになっていたに違いない想像に僕は激しく後悔するわけだが、後悔してからふと首をひねった。本作は、今の僕のフェイバリットにはならないわけ?
最近、本作を気に入って何度も聴くくせに、何故、僕は耳と心に80年代前半のフィルターをかけっぱなしにしているわけ? それは図らずも、80年代前半を「条件無しには成立しない時代」として僕が特別視しているに過ぎない状況なのではないか? 「条件」を言い換えたら「脈絡」でもいい。僕は本作を聴きながら、当時に逆戻って脈絡探しばかりしているではないか。そして、何よりも、本作を初めて聴いた瞬間、僕は懐かしくってたまらなかったではないか。 本作を聴いていると、こんな(82年的な)混乱さえも、僕には愛おしくなってくる。そんな82年と、82年を生きた当時の僕が06年の僕とダイレクトに結ばれ、キラキラと肯定される。 本作は06年に蓋を開けられる設定のタイムカプセルだった。このアルバムを82年の記憶としなかった僕はツイている! |
〜歌謡曲を聴く110〜

★★★(2006.09.25)
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『見るまえに跳べ/岡林信康アルバム第二集』 古い音源を新しい耳で聴く。 そんなリスニング姿勢を理想としていたし、そのように自分に義務付けてもいた。しかし、最近の僕は別の角度から古い音源に接するように方針を変更し、そのことに慣れつつある。それは、その時代に、若者向けのポップス音源を「その時代の若者」として聴いた人間の中で芽生えた決定的かつ重大な価値感について想像をめぐらし、なおかつ、彼等が後の時代でその影響をいかに社会に還元したかというテーマだ。僕は面倒くさい話をしているかな?
10代の若者にとって、自分の時代のポップスと向かい合うことは面倒くさい話ではないぜ。そこで受け止めた価値感の社会還元を意識しないだけのことでさ。 そういう瞬発的な価値感の連続または積み重ねでしか、ポップスの存命なんてあり得ねぇわけさ。だとしたら、最も高い発火点で価値感を受け止めた人間と出会ってみたい、なんて僕は漠然と思うわけなんですよ。その際の僕の立場は、「別の時代に別の年齢でその音源を聴き、何かを受け止めた人間」ということになる。 その出会いは一人の人間にとって決定的に有益な音楽をピンポイントで輝かせることが目的になるはずだ。 例えば、本作をめぐってはこんな会話になるかもしれない。僕との会話相手は1952年生まれのAさんとしよう。本作リリース時には18歳。彼はオンタイムで本作を聴いた、と。 僕「このアルバムは早川義夫のプロデュースで、ジャックスの楽曲をカヴァーしているし、演奏ははっぴいえんどだということで、すごく価値が高いと思うのですが…」A氏「いやぁ、あの当時は、そんなことを気にもとめなかったねぇ。誰がプロデュースだとか、誰が演奏しているとか。岡林が歌を作って、自分で歌っているってことが重要だった。それは俺が欲しかった言葉だったし、その伝達手段としての歌ってのがフィットしたね。後半の曲の作者が岡林じゃないこと(ジャックスおよび早川楽曲)にはむしろ不満を感じていたね。まぁ、良い歌ではあったけどさ。ジャックスも聴いてみようか、なんて、そんなことは思いもしなかったよ」 と、まぁ、これは、僕の創作だけれども、たぶん、こんな会話になるのだと思う。この発言の後にA氏の口から本作に関する思い出や彼の人生での意味合いみたいな発言があるのかも知れないし、無いのかも知れない。しかし、A氏が本作から言葉を受け取っていたと言うのであれば、その事実を知るだけでも僕は嬉しい。 2006年に聴く本作からムズムズとこみ上げる感情を、クレジットやデータなんぞで納得したくはないし、本作をめぐる36年間の意味を僕は当事者から証明されたいのだ。 実のところ、「そんなことを気にもとめなかったねぇ」という言葉は無敵だぜ。 |
〜BGMの調べ 17〜

★★★(2006.10.09)
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『欲望(BLOW-UP)/オリジナルサウンドトラック』 世の中に「仕掛け」として作為的になされている行為は多い。性質(たち)が悪いことに、それらの行為の多くは自然な振る舞いとしてなされ、御丁寧に「これが自然な自分なのだ」と本人の口から注釈がついたりもする。そして驚くほどに、その作為と注釈のツープラトン攻撃に屈する人間も、また、多い。・・・とか言ってさぁ、クールな振る舞いをしている僕自身がある種の「仕掛け」を作為として行っていないとも言えないわけでして。その前に、やっぱり、僕も「仕掛け」にハマるしね。相手が未熟な場合はともかく、老齢の相手の「仕掛け」は手ごわいケースがある。そもそも、その人物の肩書きが重かったりすると、特に、ね。(だからこそ、高いステータスを偽って悪さをする詐欺行為が古くからあるわけなんです) ってなことを考えていると、世の中、何も信じられなくなってしまう。全ての行為や発言の裏に作為があって、演出された人物像がそこに存在するだけ、ってなニヒルな結論になってしまう。 本作はミケランジェロ・アントニオーニの同名映画のサウンドトラック。映画は、まさに上記のような青臭い「対人間意識」を苛立ちとして描いており、有名なヤードバーズの演奏シーンなどはその苛立ちの象徴として幾分臭い演出で使用されている。ジェフ・ベックが「くだらねぇっ!」ってな表情でギターを破壊し、ジミー・ページはそれを見ながら「実にくだらねぇ」ってな表情でニヤニヤする。 映像抜きで聴く本作は実に純度が高い。その純度の高さとはジャズやR&Bへの音楽的モチベーションの純粋さもさることながら、いやらしくかまえた作為が感じ取れないという点に由来する。「あ、本気の音だ」と納得させられる。 ハービー・ハンコックのスコア&演奏なのだからして、それは素晴らしい音楽に決まってる。仮に40%程度にセーブした力で制作したとしても、充分に価値を創出できるのだろう。 で、僕が「作為」だの「仕掛け」だのに固執しているわけは、このディスクがもてはやされた次期の胡散臭い印象と本作のギャップに閉口しているからなんだ。そう、「渋谷系」の余波で、この手の音楽がイージーリスニングとして掘り起こされた時のこと。あの頃は、本作のようなサウンドを作為として取り込む新しい音楽が存在していて、本作などはまさにそのためのソースとして扱われていた。 今となって増幅する僕の不信感に対してあまりにもピュアな本作。ジェフ・ベックの苛立ちもジミー・ページのニヤニヤも無く、ただ一心に音楽的。 やっと、本作が解放されたようで、僕は心地が良いな。 |
〜歌謡曲を聴く111〜

★★★(2006.10.09)
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『エレベーター(ELEVATOR)/泉谷しげる』 80年代の泉谷しげるにハマっている。 吉田健を中心にSHI-SHO-NEN人脈が結集したサウンドのきめ細かさは、世界的に見てもニューウェーヴサウンドの稀有な成功例であるように思う。ま、ハッキリ言ってSHI-SHO-NENやリアル・フィッシュをはじめ、参加プレイヤー達の本業バンドよりもニューウェーヴサウンドとしてクオリティが高く感じる。とは言うものの、クオリティが高い低いなんてぇ話は聴き手の主観で左右される話だよな。正確に言えば、クオリティの高いサウンドを付加価値として思い切り感じさせてくれるアルバム、っつう感じ。そうそう、当時のニューウェーヴ然としたバンドは、その先端サウンドが目的であり主題であったのに対して、本作(つうか80年代の泉谷しげるサウンド)においてニューウェーヴサウンドは付加価値なのであって、核心ではない。その根拠は、純粋に泉谷の歌が主役として存在感を主張している音楽商品としての構造にある。単純な話ですまん。でもね、当時のニューウェーヴバンドの大半はボーカルの力量が無かったと思うんだよ。楽曲やサウンドのユニークさに比べて、ボーカルの迫力や存在感が欠けていた(ついでに言えば、バスドラムを踏み込むパワーも弱かった)。ところが、本作のボーカルは迫力満点。ここまで押し殺した歌唱であるにも関わらず、鋼のようにタフな存在感。 70年代の楽曲を聴いても、90年代以降の楽曲を聴いても思うのだけれども、泉谷しげるって、つまりは、歌が上手くないと思うわけさ。いわゆる美声でもなく、メロディラインを美しく聴かせる声質や歌唱法じゃない。しかし、言葉を聴かせることにかけては実にインパクトのある声と歌唱法で、その説得力は尋常ではない。また、バックトラックがアコースティックギター1本であろうと、ニューウェーヴサウンドであろうと、声を含む全ての音をひっくるめて「音楽」と呼んでいるような迫力を感じる。その意味では、泉谷の音楽におけるアレンジャーや演奏家って、恐ろしく高い次元の要求事項に応えてきた人達って意味なんだよな。(それで、本作の演奏家達が本家よりも存在感の高い演奏を残したことに納得!) 80年代=ニューウェーヴ時代のプロ仕事。プロフェッショナルなニューウェーヴ。そんなレアなケースを本作でより多くの方々に確認していただきたく思う。 |